神の視点

烏骨鶏のダンボールハウスは、床に置いているため、ほとんどの場合、上から彼らを眺めている。
餌を突いたり、歩き回ったり、足で地面を掻いたりしている。
その動きをじーっと眺めているだけで楽しいものだ。

時に、一方が、もう一方を突く時がある。
さらに、餌場から追い出したり、ヒーターの熱が当たる場所を奪ったり。
そうしている方が、どうもオスのように感じる。

小さな三人だけの世界

『烏骨鶏の二匹と僕』
三人だけの小さな世界が、そこにある。
そこでは、烏骨鶏の二匹は地上の住人で、僕は『神』である。

偉そうなことを言っているように思われるかもしれないが、烏骨鶏のヒナの物理的Powerを含め、すべての地上での力と僕が出来る力には、ほぼ無限大の差がある。

彼らを生かすも殺すも、僕にとっては朝飯前だし、彼らにどんな生活空間を与えるか?どんなものを食べさせるか?どんな温度で過ごさせるか?すべては、僕の気分ひとつで変えることができる力がある。

これは、烏骨鶏の世界にとって、僕は『神』のような存在と言っても過言ではないのではないかと思うのだ。

人間の世界に視点を移す

烏骨鶏からしたら、上から見ている僕に気が付くことは、あまり多くない。
人々も、上から神のような誰かが見ているとは、なかなか思いながら生きている人は少ないだろう。

「きっと誰も見ていない」と思いながら、左右をキョロキョロと見回し悪さをする人がいるが、上から丸見えだったらどうなのだろうか?

まるで、映画【トゥルーマンショー】のようだが、実は、僕たちの世界も、烏骨鶏の段ボールの中と同じなのかもしれないと、常々思っているのだ。

『神』と言われる存在がいるとしても、その神も、もっと大きな世界の中の一員に過ぎず、さらに大きな世界が広がっている可能性は大いにある。

宇宙は、とてつもなく大きいとはいえ、それは、烏骨鶏たちにとって、僕の山の範囲が地球と同じ程度の世界で、日本が宇宙全体と同じ程度の範囲だというのと同じだろう。

日本の外に、まだ何十倍もの世界が広がり、さらに、その外には、無限とも思える宇宙空間が広がっているなど想像もできないだろう。
とはいえ、そんなことを想像しても、なんの意味もないのだろうけど。

今、神ならどうする?

烏骨鶏を眺めていて、一方が餌を独占しようとした時、僕は、そいつを摘んで、どこか遠くに放り投げ、餌を食べられなくなっている方に餌を食べさせたいという欲求にかられることだろう。

幸いにして、そんな、意地悪は起きてはいないが、上から見ているとよくわかるし、奪うものにはそれを阻止し、与えるものには減ったぶんを与えようと思うのは、自然な感情から来る行動であるだろう。

さて、人間界において、神ならどうするか?

僕は、同じような行動にかられるのではないだろうか?と考える。
どこかで、こんなことを聞いたことがある。

奪う者は奪われ、与える者は与えられる

こうしたことが起こるとすれば、誰に奪われ、誰から与えられるというのか?
単に、システム的に、そうなるようになっているのか?
そうかもしれないが、この世界のシステムを構築するにあたって、こうした法則を取り入れた者こそ『神』と呼んでもいいのではないかと思う。

そして、これは、現実に起こっている話であろう。

神?本当の自分?真我?天使?精霊?

なんだかわかんないけど、居そうな気がするのは、多くの人が思っていること。
お墓参りするのは、肉体が亡くなっても、霊として存在していることを信じているからだろう。

『神の視点』
自分たちが生きているこの世界にも、存在すると思うことで、人生の意識が変わるかもしれない。
「奪わない」と考えるというよりも「与えても減らない」と思うことができた時、本当に「減らない」いや「さらに増える」という経験をするに違いないと思うのだ。

神の目も神の手も、この山に来て大いに、リアルに、感じることがある。
まるで、烏骨鶏のダンボールハウスを眺め、いくじって遊んでいる僕のように。

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