いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい

これは、聖書の一節で、とても有名な言葉である。
僕が、この言葉を初めて聞いたのは、中学2年の時。
もらったしおりに書いてあった。
それを、ずっと、聖書にはさんで、使っていたのを覚えている。

毎日のように見ていたこの言葉なのだが、あの頃は、この言葉の本当に大切な意味は、分かっていなかった。
この言葉の大切な部分は、「喜び・祈り・感謝」よりも、「いつも・絶えず・すべて」というところにあることが、最近になってようやくわかりかけてきた。

中学生でも、「喜び・祈り・感謝」が大切なことは容易に理解できる。
だから、今まで、この三つの言葉ばかりに重きを置いてきた。

なるべく喜んでいようとし、毎日、毎時、祈ろうとし、事あるごとに感謝しようとした。
しかし、聖書の言葉通りには到底いかない。

いつも喜ぶというように、何事があっても常にニコニコしていたら、「頭、おかしいヤツ」くらいに思われてしまうのではないか?と思ってしまう。
例えば、人に罵声を浴びせられても『ニコニコ〜』、何かがぶつかっても『ニコニコ〜』、なんにもなくても『ニコニコ〜』・・・やっぱり、頭おかしい人だ。

「よくない事が起こった時は、別」だという人がいる。
確か、若い頃、教会で、この言葉の意味を聞いたときに、「いつもは喜べなくても、なるべく喜んでいる事」だと言われたような気がする。
数値に表せば、人生の99%喜んで過ごす事だと。

僕も、ずっとそう思ってきた。
だが、最近になって、そうではないと思うようになった。
いつもは、いつも、100%完全に喜んで過ごすという事だと気がついてきた。

人に何かを言われることや、何かがぶつかることは、マイナス要素だとするのは、世間の常識だし、人間としての正しい反応ではあるが、それでも、単なる “反応”でしかない。
起こった出来事を、自分で解釈し、それを『マイナスである』と判断するだけなのだ。

しかし、どんなことであっても、それが起こる理由があり、それらすべて、どんなに小さなことでも、未来の幸せにつながっている。
とても喜べないことが起こったとしても、それらは、すべて、完全に幸せへの最短距離のライン上にある、起こるべき出来事であると知れば、常に喜んで人生を送れるというものなのである。

だから【いつも】喜んでいなさい。
100%常に喜んで過ごしなさい。
すべては、完璧に物事が起こっているのを知って、喜びで満たされているように。
と、いうことなのであると、最近、感じている。

次に【絶えず祈りなさい】
祈りというのは、お願いではない。

祈りに関して検索すると、たくさんの、牧師さんや神父さんが書かれた文章が出てくるし、聖書の中に出てくるほとんどの祈りもそうだが『お願い』になっている。
僕は、祈りをお願いの祈りから、一歩先に、いや、百歩も千歩も前に進めた解釈で祈りたいと思っているし、実際にそうしている。

祈りとは感謝と共通しているのだけど、祈りは、【未来の確定宣言】であると思っている。

確か、聖書の中にも、確定の宣言である祈りが、どこかにあった。
それはこんな感じ「私は、神が〇〇してくれるのを知っています」と言うような祈りだった。
お願いの祈りと、大差ないように感じるのだが、一般的な「〇〇してください」と言う言い方ではなく、「〇〇してくださることを知っています」と言う断定した言い方をしている。

まあ、捉え方によっては、単なる言い方の違い、希望を「神様なら、必ずなんとかしてくれるでしょ」的な言葉の言い回し程度にしか感じないかもしれないが、言葉の内容が重要と言うよりも、そこに信念があるかが重要だと思っている。
確信に満ち「知っている」と宣言するか、単に、希望を言い表しているのか?

僕は、一昨日書いた『グリフィンの祈り』にあるように、【求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは叶えられた】と言うように、物事の現象を求めず、自分が自分自身として、自分らしくあるように常に“願う”と言うか、必ずそうなると確信し、思うようにと言うか、思い出すように心掛けている。

けど、よく忘れているし、【絶えず祈る】と言うようにはなっていない。
絶えず祈るとは、毎日、毎時、毎秒、本当に常にと言うことなのだがら、そうなると、常に“繋がっている”と言う感覚を持ち続け、“一体である”と言う思いを忘れないでいると言うことなのだろう。

そうは、思っても、正直なところ、まったく、ちっとも出来てはいない。
これは、これからの課題だろうな。

【すべてのことに感謝しなさい】
教会に通っていたころ、やたらとみんなが「感謝します!」と言っていたのを思い出す。
本当のところ、ほとんどの人がよく分かっていないまま口にしていたのではないか?と思えてくる。

それでも、感謝は大切だと言うことは、誰でもわかる。
ただ、問題は【すべてのこと】である。

これが『ほとんどのこと』であれば、簡単なのだが、すべてというと、あんなことも、こんなことも感謝しろというのか?となる。
とてもじゃないけど、感謝できないような事も「感謝しなさい」と言う。

僕の例で言えば、ゴルフ練習場の光害問題である。
ゴルフ練習場に感謝するのか?あの眩しい光に感謝するのか?あのI社長に感謝するのか?
一体、何をどう考えたら、そんなことに感謝できると言うのだ!?と、言いたくなるが、それでも、「感謝しなさい」と言う。

ここで、聖書の中の言葉で、こんな言葉を思い出した。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」この言葉の真意はさっぱりわからないけど、これを思い出した。
そしてもう一つ「あなたの敵のために祈りなさい」と言う言葉も。

目の前に起こった出来事と言うものは、それ自体には意味はなく、どう受け止めるかで変わる。
昨夜、僕は、デスクの上にラー油をぶちまけた。
さらに、椅子にも垂れたので、ちょうど脚の間がラー油のシミになり、まるで、お漏らししたように油染みができてしまった。
なんてこった!

さらには、今朝は、キッチンにミルクをこぼし、コンロ周りはミルクだらけに。
牛乳というのは、匂いがヤバイ。
しばらく、キッチンが牛乳臭いだろうなぁ・・・。

こんなことを喜べるはずも、感謝できるはずもないと考えるのが普通だが、こうした出来事というのは、このこと自体に喜んで感謝できなくても、出来事というのは、次につながっている。

例えるとこんな感じ。
自動販売機にお金を入れて飲み物を買うという行為。
お金を入れて・ボタンを押すと・飲み物が出てくる。
という三つの出来事がある。

お金を入れるという行為は、お金を失うということなので、悲観的になりがちだ。
しかし、欲しいものを選択し、ボタンを押せば、求めているものが手に入るのであるから、お金を失ったことを悲観する必要はない。

世の中の仕組みが、自動販売機と同じ仕組みだと知っていたらどうだろう?
ラー油をぶちまけても、キッチンをミルクだらけにしても、そのことによって、のちに、求めるものが手に入ることがわかっていたら、いちいち悲観するだろうか?落胆するだろうか?「くそっ!なんでこんなことが起こるんだ!」と思うだろうか?

自動販売機の前でお金を入れて、お金を失ったことに悲観し、落胆し、飲み物を選択しないで、怒りながらその場を立ち去ってしまっては、いつまで経っても飲み物は手に入らない。
お金を入れた時から、頭の中は、欲しい飲み物のことだけを考えて、ルンルンしながらボタンを押し、出てくるのを待っていれば、必ず、欲しいものが手に入るのである。

人生は、自動販売機と同じ仕組みである。
何か事が起きた時、特に悲観するようなことや、落胆してしまうようなこと、怒り狂いたくなるような事が起きた時、『自動販売機にお金を入れた』と考える。
そう思えば、次に、必ず、求めるものが手に入るという合図にすぎない事がわかる。

ってことは、悲観する出来事、落胆する出来事、怒りが湧いてくるような出来事は、次に来るGIFTの前触れだという事だ。
よくよく、思い出してみると、僕は、こうした小さな運の悪さが、今までの人生で頻繁に起こっていた。
しかし、常に、こう思っていた。

「運の量は、決まってる。
僕は、小さなことに運が悪い分、大きなことに運がいい」と。

実際に、大きなことには、いつも、最強の運が発動する。
とっても、運がいいのである。

GIFTの支払いと考えても、運の量が決まってると考えても、どちらにしても、解釈の違いだけで、同じようなことである。
そういうわけで、出来事自体に、悲観する事も、落胆する事も、怒ることもないのだ。
どんなことも、素晴らしい人生につながる道でしかない。
そう思えば、すべてのことに感謝できるのである。

一瞬、イラッとしたり、クソっと思ったりするかもしれないけど、その先に待っていることを思い出す事ができれば、どんな出来事も起こってOKだし、むしろ起こって欲しいとさえ思えてきてしまうようになる。

【いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい】

35年経って、この言葉と、ガチで正面向き合うとは思いもよらなかった。
まだまだ、本当の意味はわかっていないようにも感じるが、今は、これで良いことにする。


P.S
写真は、文章とはまったく関係ないけど、僕の膝枕でお昼寝をするOPERA

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