1998年4月、単身上京。
ウェディングの写真撮影会社に入社して、フォトグラファーの道を歩み始めてから23年半が過ぎた。
人生の約半分を、写真・映像・婚礼という世界で生きてきた。
この道が終わるとは、まったく想像していなかったが、始まったものは、いつかは終わる。
その“いつか”がいつなのか知らないだけである。
そのいつかが来たのだ。
医師に様々な専門分野があるように、フォトグラファーという職業にも、様々な専門分野がある。
大まかに分けると、まずは三つに分けられる。
- 自分の好きな写真を撮影して売る、写真家と呼ばれる人たち
- 雑誌のモデルや有名人、商品などを撮影する広告フォトグラファー
- 一般人を対象に、結婚式や七五三などを撮影する営業写真館のフォトグラファー
僕は、一番下の営業写真を撮影してきた。
三つの中では、最も長く現場で撮影することができる職種である。
そのため、晩年になってもシャッターが切れると思っていたが、想像よりも、遥かに早く終わりが来たのだ。
アリアコーポレーションという会社自体は存続するが、スタッフは全員、新会社に移籍する。
僕が頼んで、新会社を設立してもらい、撮影事業を移行してもらった。
幸いにも、今までの取引先よりもビックな取引先との契約が成立し、新会社は、立ち上がりから順調にスタートを切った。
これで、僕も、肩の荷が降りると同時に、みんなことをさほど心配せずに次に進める。
さて、僕はというと、この山に来てからの主目的である、山の開拓と建築にこれからも勤しんでいく。
今やっていることは、仕事にならないし、なんの収益も産まないが、それでも、やっていることは次の仕事へ必ずつながっていくものなのである。
最近、めっきりご無沙汰となっているYoutubeは、「どうなのよ?」
と、思っている方々もいると思う。
編集が面倒とか、新しいネタがあまりないとかってこともあるけど、実は、7トンのデカイユンボであるセブンを購入して、ガツガツと作業をしていると、今までとはレベルの異なる大掛かりな作業が多くなり、結構、命の危険を感じながら作業をしている。
そうなると、カメラのセッティングだとか、アングルだとか、バッテリーとかメモリーカード残量とか、気にしていられないのだ。
そこに、フッと気を取られた瞬間に『ドッカーン!』となる可能性は、大いにあり得る。
そのため、最近は、危険な作業の時は、動画を撮らないようにしている。
危険な作業ゆえに、面白いシーンも多々あって、後で「あー、撮っときゃよかった。あれ、面白かったのに〜」と思うことは多いが、死ぬよりマシと諦めているのだ。
しかし、セブンの操作にも徐々に慣れてきて、どの程度が危険で、どこまで安全かが少しづつわかってきた。
そうなってくると、カメラをセットする余裕も出てくる。
現在の状況からすると、すでに、Youtubeの広告収入で大きな収入を狙うというのは、非現実的になっている。
芸能人や有名人のほとんどがYoutuberになっているし、撮影も編集もプロが入っている。
その中で、高い再生回数を稼ぎ出すことは難しい。
そうなると、ちっとも収益を生まないで、蓄えを食い潰していくのか?と思われるかもしれないが、そこは、どっこい、そうでもない。
これからどうなっていくのかという、もしもの話はしないけど、まあ、人生なんていうのはどうにでもなるものなので、気軽に行末を見守ってもらえたらと思うのだ。
何はともあれ、何事も、始まりがあれば終わりがある。
小学生をやりながら、中学に入学する人などいないように、小学校を卒業し、小学生でも中学生もない状態、何者でもない状態を経験したのち、中学校に入学し、中学生となるわけなので、僕自身もフォトグラファーというものを23年半経験したのち、卒業したということなのだ。
10年区切りの人生
人生を振り返ると、僕の人生は、大きく10年で区切ることができる。
最初の10年の区切りは、10歳の時。
引越しを機に、小学校を転校した。
それまでの僕は、どちらかというといじめられっ子タイプで、いわゆる『のび太』だった。
まさに、ジャイアンとスネ夫となる二人がいて、常に、三人目ののび太としてつるんでいたのだ。
それが、転校を機に「もう、いじめられないぞ!」と気合を入れて臨んだ事で、大きく逆方向へ振れてしまい。
なぜか、いじめっ子筆頭のような状態になってしまった。
それが、中学でも、高校になっても続いていき、結果、問題児というようなレッテル貼られたままの10代を過ごした。
社会に出てからは、大人しく淡々と働いていたが、これまた19歳の時に転機が訪れる。
この頃になると、ネットワークビジネスの勧誘がどこからともなく来る。
一般的には、学生時代の同級生というところだろうが、僕の場合は、勤めている店にきたお客さんに、僕の方から仕事について聞いたことがきっかけだった。
当時、珍しかった携帯電話を、男女二人共が持っていて、「一体どんな仕事をしているのだろう?」と興味を惹かれたのだ。
その仕事が、Amwayだった。
それを知った時「なんだ、Amwayかぁ、、、」と落胆したが、実際に、商品を見て、ビジネスの仕組みを聞いてみると、噂で流れているようなネズミ講的なものではなく、しっかりとしたビジネスの形態が確立されていることがわかった。
ちなみに、商品の品質を、30年が経過した今だからリアルに評価できるのだが、二十の時に購入したAmwayの鍋セットはいまだに健在だし、同時に買ったIHクッキングヒーター(当時は、日本には存在せず、電磁調理器と呼んでいた)も、バリバリ現役である。
30年現役で使える電化製品(修理は一度もしていない)なんて、この世に、存在するか?というほどの耐久性が証明されているのだ。
そこで、二十歳になると同時に初め、11ヶ月で最初の目標であるシルバープロビューサーに到達した。
到達すると、僕の興味は一気に薄れAmwayビジネスを辞めたのだ。
その後、ネットの世界で言うところの掲示板のオフライン版である、個人からの情報を掲載するフリーペーパーが創刊された。
その創刊号に、Amwayを辞めて、友達が居なくなった僕は、「友達募集」という記事を掲載した。
すると、家電(イエデン)の留守番テープが足りなくなるくらいのメッセージが吹き込まれていたのだ。
それを機に、友達を作るためのサークル「FRIENDS」を立ち上げた。
これによって、人との交流が、さらに増加して、メンバーは常時100名程度を維持したまま5年程度運営していた。
そして、25歳の時、上京したのだ。
その後、共同で会社を立ち上げた後、完全に独立して、アリアコーポレーションを設立した。
次に訪れた大きな転機は、青山にポートレートフォトスタジオ「ALIA Photographic Studio」を作った時だ。
それまでのウェディング撮影が若干嫌になっていた。
そこで、自分の能力と時間、労力のすべてを注ぎ込めるように、自分の城を作った。
すると、毎月のように、テレビ、新聞、雑誌などの取材が入った。
僕がやっていた撮影のスタイルが、他と一線を画すものだということもあったが、青山という便利な立地にあったことも、取材が多かった理由のようだった。
セミナーや講演なども多く入り、そののち、大きな取引先との契約に結びついたのだ。
40歳を前にして、僕は、ほとんど現場をやらなくなった。
今、フォトグラファーを辞めたと言っているが、現実的には、10年も前に辞めていたのだ。
そこから、仕事はスタッフに任せ、僕は、自分の好きなことをして過ごした。
車に乗って、行き先も、宿泊先も、期限も決めずに旅に出たりしていた。
そして、東京を出て、愛媛の山に引っ込んだ。
50歳を前にした今、また、新たに人生の帰路に立った。
ここから、どう行くのか?
それなりに、道筋は付けてはいるが、正直なところ、はっきりとはわからない。
しかし、僕には、それが面白い。
いつも、想像した人生の道とは違う道に進む。
10歳の時、いじめられないぞ!とは決めたが、まさか、自分がいじめっ子、それも、筆頭のような存在になるとは思いもよらなかった。
20歳の時は、いろんなことがあり過ぎた。
30歳の、スタジオを立ち上げた時、まさか、毎月のようにメディアに出るとは思いもよらなかった。
40歳では、よく言われたセミリタイアというものが、自分の身に40歳を手前にして訪れるとは考えなかった。
さて、次に、人生は僕をどんなに面白いところに連れていってくれるのだろうか?