ロビンソン・クルーソーを読んだ

「ロビンソン・クルーソー」とっても有名らしい。

確かに、名前は聞いたことがあった。

しかし、そんなしゃれた書物は、今まで読んだことがなかったのだ。

だが、今になって読もうと思い買ってみた。

小説として有名なのか?

教訓として有名なのか?

キリスト教の布教に役立ちそうで有名なのか?

それは、さっぱりわからないが、僕としては、実話のようでとても面白い話だった。

この本が出た時には、実話として出されたようで、そのことで「ありえなーい!」とかなんとか言われて、散々叩かれたようなのだが、僕からしたら「そんなの、どっちでもよくね?」と思うのだ。

僕の好きな本「神との対話」も、「本当に神と話をしたのか?」「勝手な想像じゃないのか?」など、散々言われたらしいけど、それも「そこ、論点にするとこじゃないだろ!」と思うのだ。

重要なのは、書かれている内容であって、対話の相手が神なのか、そうでないのか?なんて、どっちでもいいというか、キリスト教信者にとってみたら、神=イエス・キリストってことになるので、イエスと話をした!?みたいになっちゃうんだろうな?

神は、「この世の全て」と認識すれば、それが「神」でも「想像」でも、どっちも神だってことになるのだけどね。

ロビンソン・クルーソーの中でも、キリスト教の信仰について書かれている。本の中でロビンソンが原住民の若者にキリスト教について教えるのだけど、若者は、いろんなことをロビンソンに聞く。

その内容が「あ〜、それは聞いてはいけないんだ〜」と言う内容のことを、本当に純粋に聞くのだが、それについてロビンソンも答えに困って「なんて答えたらいいのか?」と悩むシーンがある。

宗教というのは、結局は、突き詰めてしまうと矛盾が生じてしまうものなのだ。(たぶん、キリストや釈迦に矛盾があったのではなく、その後の「宗教」として確立させていく段階において矛盾が生じていくのだと思われる)

で、ロビンソン・クルーソーが実話だろうと、想像だろうと、それもどっちでもいいのは、僕たちが現実と言っているこの世界だって、本当はなんだかわかっていないのだ。

マトリックスの世界が、本来の現実なのかもしれないのだから。論じること自体が意味不明なことだってありえるのだから。

さて、この話。

今さら読もうと思ったのは、無人島に一人で住むっていうのと、山に一人で住むっていう自分の境遇に重なるものがあったからっていう理由に過ぎない。

これが単なる小説であっても、実際に手を動かして何かをやったとしても、こうして長く読み継がれてきているということは、そこに、読み継がれるだけの意味があるはずだと思ったのだ。

読んでみると、何かをしたことよりも、その状況でどう感じていたか?ということの方が面白みがあった。それは、僕も似たような境遇において、似たような感じ方をしている経験があるからだ。

この話を最後まで読んでみて思ったことは、全てがドキュメンタリーとか、全てが想像だというようなことではなく、いろんな要素が混じり合って、結果、人々の人生において教訓となる要素が多々含まれているということだろう。

作者は「ロビンソン・クルーソー」ではなく「デフォー」という人である。

デフォーさんが経験したこと、感じたことなど、いろんな要素が多分に含まれているように感じたことから考えると、デフォーさんは、よっぽどいろんな経験を積み重ねてきたような、そんな気がしたのだ。

それを、ロビンソンという一人の人物によって、小説のなかで体験させたものが、このロビンソン・クルーソーであるのだろう。

結局、これは実話か作り話かという論争においては「どっちでもある」という答えが妥当なのだろうと思った。

そして、僕がこの本から得たことはというと「俺もきっと大丈夫だな」ってことである。

どんな境遇でも、人間、なんとかしようと思えばなんとかなるものだと思えたよ。

そして、このロビンは、特別な能力や技術を、何一つ持っていなかったというのが、またいいところだった。

本当に、なに一つ持っていない。

現代でも「自分には何もない」と思っている人たちは多いと思われるが、そんなの関係がないっていうことを思う。

人間、考えて考え抜けば、なんとかアイデアは浮かぶし、長い時間をかければ、それなりに何か出来上がる。それでも、無理なことがあっても、代わりになるものや、代わりのことは意外とあるもので、諦めなければなんとかなるものである。

さらに、諦めても別に構わない。それでも、生きていけるのだ。

いつも災害があると、水道から水が出るありがたさを知ったり、電気が通っていることに異常なほど便利だったことに気が付いたり、一人二人じゃ全く歯が立たないようなことでも、ボランティアが来てくれて何十人もで力を合わせれば、大概のことは出来てしまったりするのを目の当たりにする。(テレビ見てだけど)

先進国に生まれ、先進国で生活しているということは、全世界から見ても本当にラッキーな、世界の中の数少ない幸運な人物であることを、ほとんどの人は感じることはない。

本の中にこう書いてある。

無人島にたった一人でたどり着いて、絶望のどん底にいた時でも、もっとアンラッキーな人たちと比べれば、自分はなんてラッキーだったのか!と本気で思え、神に感謝した。と。

小さな出来事の一つ一つが、奇跡とも言える幸運によって生かされていると感じたという。

現代では、当たり前のように起こる出来事に感謝するどころか、不平不満ばかりを口にすることが多いかもしれない。

そんな時には、当たり前のことがすべて無くなってしまうといいのだ。

そうすれば、災害の時の水や電気、ボランティアの方々のありがたみを感じるように、当たり前だったことに対して感謝できるようになる。かもしれない。

僕も、この山に来て一年。

一言で言えば価値観が変わった。

そして、ロビンソンが経験したように、もっと多くのことに感謝できるようになるのだろうと思っているのだ。

不平不満が溢れ出て来て、本当は、そんな風に思うのが嫌だー!という人がいたら、「当たり前」をどんどん捨ててみることをオススメする。(まあ、それには勇気がいるけど)

不平不満を言う対象とそれに関連している物事を、自分から切り離して捨てることがなかなできない。だからこそ不平不満を言ってしまう。

ってことは、不平不満を言う対象またはその関連していることから、本当は恩恵を受けているってことなのだ。

それを感謝できなくなってしまっているのだろうな。

そこに気がつくと、人生は「なんてラッキーなことばかりなんだろう」なんて思えてくるかもしれない。


via Mark な 人生



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