僕を苦しめ続けたもの、権力・時間・金銭

投稿日:2018年7月4日 更新日:

権力・時間・金銭

この3つは、僕を苦しめ続けた。

そして、今も苦しめ続けている。

今、もっとも僕を苦しめているものは、権力である。

権力といっても、国家権力とか、そういうデカイものじゃない。

極々、小さなものだ。

例えていうと、上司と部下とか、親と子とか、そんな程度の話ではあるが、どれも権力に関係している。

昔から権力に抑圧されていたことを思い出す。

しかし、そうした出来事は、すべて自分が組み立てたものなのだ。

そして、自分がこの世界で体験し、学び、手に入れたいと思っているものなのだ。

それが、この3つ、権力・時間・金銭なのだろう。

この3つが「無い」という状態からスタートし、手に入れては失うということを繰り返し、最終的に手に入れるというストーリーのために、小さなことからあらゆる出来事を体験するように組まれているのだということがわかってきた。

自分を苦しめるものこそ、自分が欲しているものなのだ。

以前「遅刻する(元)スタッフ」ということを書いた。

それも自分が自分のために仕組んだこと。

なぜか?私は時間が欲しかった。

時間に自由で居たかった。

しかし「時間は守るもの」という思いによって、時間に縛られ続けていたのだ。

だけど、時間は守るものという考えなど手放してしまえばよかったのだ。

時間を守らなくてもいいのでもない。

どちらでもいいと気にする事をやめてしまえばよかったのである。

もちろん簡単ではないが、簡単であったら、面白くはない。

難しいが、それを楽しいゲームだと思っていればいい。

答えがわからなくてもいいし、間違っていてもいいのだ。

正しい答えを出さなければならないと思えば、それに苦しめられることになる。

どっちでもいいと思えばいい。

なぜ、僕が権力というもので苦しんでいるかというと、僕は、上に立とうという欲は無いことはない無理に上に上がろうとしても上がれない事を知っている。

人を踏みつけて上に上がっても、ずり落ちるのが関の山である。

人の上に立つには、人を支える者であることが大切だと思っている。

しかし、本当のところは、それも違っているのだろう。

僕が行き着くべき答えは、やはり「どっちでもいい」ということになると思える。

自分の役割は何か?

それがわかっていれば、人の上に立つには・・・などと考える必要などないのだ。

もちろん、それは、必死に上に上がることではない。

人を支える人になろうとか、人々の土台になるように努めようとか、上に立つものは、常に最も低い場所にいることだとか、「いいこと」と思えるような考えを持っていたのだ。

しかし、そうではないと気づき始めたのだ。

人の上に立つには・・・そう思っているようでは、そうは決してならないということだ。

私の役目は何か?私がこの世界でなすべきことは何か?

その答えが結果のすべてである。

心の奥から出てくるもの、それが、行く先である。

だから、気にすることはない。

気にしていれば遠ざかり、気にしなくなれば近づいてくる。

自分は、人を支えたいのか?

NOと言えば、反発されるだろう。

しかし、現実には、それがやりたいことではないのだ。

では、人の上に立ちたいのか?

それも実際のところNOである。

人に神輿を担がせて、その上に鎮座していたくはない。

かと言って、自分が最も苦しんで、皆を支えたいわけでもない。

共に歩むことが集団を形成する際の自分の望みである。

その中で、本当に、自分が欲しているものとはなにか?

それは、大きな決断を行うことである。

一般的には、躊躇してしまい、決断できないようなこと。

大きな責任を伴い、皆がそれを負いたくはないと躊躇するようなこと。

そうした事柄を、皆を代表して決断して実行する、そこに快感を覚えるのだ。

すべては、私の思い通りなのである。

この世の支配者は私であると言ってもいい。

それは、すべての人がそうなのだ。

同じ世界に生きているようで、決してそうではない。

一人一人違う世界を生きている。

一人一人が、この世界の王であり、絶対権力者であり、世界征服できているのだ。

「世界は私を中心に回っている」というセリフがあったが、あれは正しかったのだ。

その人にとっては、世界はその人中心なのだから。

そういう人に影響を受ける人は、自分が王ではない事を体験したいと思っている人だろう。

王で良いと思っている人は、誰かが「私が王である」と言っても、なんの影響も受けないだろう。

イエスキリストが「私は神の子である」と言ったときに、ユダヤ人たちは憤慨した。

彼らは、自分達が神の子ではないという事を体感したかったのだ。

自分達が、神の子であるという事を知っていれば、いや、神そのものであると知っていれば、キリストが「私は神の子である」と言っても、怒りなど出はしなかっただろう。

神と分離しているという体験をする事で、神を感じることができるのだから。

そのほうが、体験として楽しかったのだ
ろう。

自分が神そのものであるという事を知っていたら、自分が自分を感じるというのは、ちっとも面白くない。

この世界は、面白いゲームだ。

聖書にこんなフレーズがある。

「抵抗すれば強くなり、見つめれば消える」

これだけでは分かりにくいが、今まで書いてきたことと同じようなものだ。

自分にとって嫌な出来事が起きた時、それに対して抵抗・対抗しようとする。

怒りを相手に投げつけることもあるだろうし、そこから離れることもあるだろう。

しかし、その現象は、自分自身が何かに気がつくために、相手に言ってもらっている、またはやってもらっていることなのだから、そこを見つめないで、単に抵抗したり見ないふりをしているだけでは、自分が気が付きたいことに気が付きようがない。

そうなると、自分が気がつくためには、相手の言動・行動を強くしていく必要がある。

または、そこから逃れても、また、同じような現象が現れる。

そうして、自分自身に気づきを与えたいのだ。

だが、往々に、その強くなった相手に対して、もっと強く抵抗しようとしてしまう。

そうなると、相手は、もっと強くなってくれる。

それは、自分自身が気がつくために望んで、そのようにしてもらっているのだから当然である。

すると、最終的には、自分の力が及ばぬところまで相手は強くなる。

そして、コテンパンにやられることになる。

その時は、いくら抵抗しても力負けしてしまうのだ。

そして、惨敗。

その時になった、ようやく気がつく。

そこまでいかなくても、途中で気が付いてもいいのだ。

もちろん、最後まで抵抗し続けて、惨敗してもいい。

それもまた面白いのだから。

意地になって抵抗し続けても、途中でクリアしても、どっちでも良いのである。

ただ、知っておけばいい。

すべての現象は、自分が求めたものなのだという事を。


via Mark な 人生



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