悪魔とのおしゃべり(本のこと)

月曜日に、いつもの東京・千葉から、愛媛の山に戻って来た。

ブログを書くのも、およそ2週間ぶりだ。

2週間前までは、やる気満々だったが、今は、どうにもやる気がおきない。

雨のせいもあるだろうが、なんだか、自分がやっていることが無意味に思えてきたのだ。

「俺は、いったい、何をやっているのだろう?」と考える。

今までの45年間の人生の中で、なんども、なんども思ってきたことだ。

そして問う。

「いったい、なんのために生きているのか?」と。

雨が考える時間をくれているのだろうか?

とも思うが、今までだって、この疑問に、なんども、何時間も費やして考えてきた。

しかし、わかりそうでわからない、わかったと思っても、そうではないのでは?とすぐに思い直す。

そうして、結局は、何もわからないまま生きてきたのだ。

愛媛から飛行機で行くときや、千葉の奥の方から東京に出て行く時は、移動時間が長い。

そんな時、いつも本を読む。

手持ちの本では、すぐに読み終わってしまうため、先々で買うのだが、先日共感した「神様とのおしゃべり」の続編的な「悪魔とのおしゃべり」を買って読んだ。

神様とのおしゃべりもよかったが、この悪魔とのおしゃべりもとてもよかった。

これを読んでいて「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」を思い出した。

あの本も、嫌われる勇気に対して、後から出版された幸せになる勇気の方が、少し理解するのに難しかったが、この悪魔とのおしゃべりも、理解するには何度か読まなければならないように感じた。

どんな本も、書いてあることを要約してしまえば、似たようなことが書かれているのだが、書かれていることは「悟り」に達するようなことなので、実際に、完全に理解できるということはない。

もしも、理解できるのであれば、この世界に生きている意味などないからだ。

それでも、この世界に生きる意味を見出したいと思う人々が、ヒントを求めてこうした本を読む。

もちろん、僕もその中の一人である。

そして、いろんな角度から知ることによって、少しづつ理解していく、というか思い出していくのだろう。

ただ、理解すればするほど、どんどん、この世界から遠ざかっていくような気もする。

それは、推理小説のようなもので、犯人を知りたいという気持ちがあるが、犯人がわかってしまったら、読む意味などなくなってしまうのだ。

だから、犯人は知りたいけど、知りたくないという状態を望む。

しかし、犯人が全くわからない、予想もつかないのでは面白くはない。

なんとなく、犯人の影が見える、だけど、はっきりとはわからない。

そんな状態が、最も面白いのである。

そして、人生も、またしかり。

人生の仕組みを完全に理解したいという思いがあるが、完全に理解してしまえば、人生というゲームを楽しめなくなるということも、薄々わかる。

なので、なんとなく、こうだろうか?ああだろうか?とヒントを元に探っているのがいいのだろう。


via Mark な 人生



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