爺さんの匂い

KURE 5-56 に代表される、スプレー式の潤滑オイル。
先日、シューシューと吹きかけているときに、フッと爺さんのことを思い出した。

「そう言えば、爺さん、いつもこの匂いがした」

あの匂いは、潤滑油の匂いだったのだ。
爺さんは、国鉄の整備士だったと聞いていた。
いつも機械と油に囲まれて生きてきたんだと、今更ながら実感。

爺さんが亡くなった後、ガレージの中の工具類をもらってきたのだが「こんなたくさん、何に使ってたんだ?」と思えるほど、いろんなものが大量にあった。
考えてみれば、爺さんは、ずっと「機械大好き」だったのだ。

人が日常を生きているとき、ほとんどのことを視覚に頼っている。
その分、他の感覚を存分に使っていない。

東京の青山に住み、スタジオを運営していた当時、ある時から、盲目の人たちが多く歩いていることに気がついた。
盲目であるかどうかは、白い杖が目印である。
この杖を持っている人たちが、ずいぶんとたくさん歩いていた。
それも、毎日である。

それを特に気にしていたわけではなかったのだが、その後、歩いて行ったその先に「ダーク・イン・ザ・ダーク」と言う、暗闇体験施設ができていたことがわかった。
盲目の人たちと同じ環境を体験する。
真っ暗な中で、歩いたり、食べたり、飲んだり、話し合ったりする。
目の見える人にとっては、生まれて初めての体験である。

このときに、他の器官が敏感になるのがわかる。
特に、聴覚と触覚は非常に繊細に反応する。

今では、五感に障害を持ったとしても、世間から変な目で見られることもなく、生活するにおいても、昔のように死んだも同然のように思う必要もないし、思われることもない。
多少なりとも、他の人からのサポートが必要だろうが、人間、生きていれば、本当に一人で何でも出来るわけでもないのだから、日常の些細なことを頼るか、他のことを頼るかの違いでしかない。
むしろ、健常であるがゆえに、多大な迷惑をかけることも多いかもしれない。(自分の若い日々を思い出すと、ずいぶんやった記憶が蘇った)

思い出すと、爺さんも、定年してから働きに行っていた工場のプレス機に腕を挟んで、右腕が不自由だった。
それでも、車を運転し、農機具を使いこなしていた。
腕は、五感とは違うけど、人間、どこかの機能が衰えれば、他の機能が発達するように出来ているものだ。
利き腕が使えなくなれば、逆の腕がちゃんと使えるようになるものである。

これは、五感にかかわらず、身体的な障害でもない、先天的な能力にも当てはまる。
昔、精神薄弱者施設で働く知人がいて、ちょいちょい、施設に顔を出していたことがある。
そこには、正直にわかりやすく言うと「狂った人間、狂人」としか思えない人々が、うようよとしていた。

糞尿は、どこでも垂れ流し、さらに、自分の糞尿をこねて遊んでいる者、テーブルのボルトを素手で手をボロボロにしながらも外している者、雄叫びをあげながらゾンビのように走ってくる者、拘束着を着せられて、床に転がっている者、もうそこは、動物園などではなく、妖怪の館でもなく、まったく秩序のない、何と表現したらいいのかわからないような場所だった。
そうした人たちは、親からも見放されているようで、たまに面会に来る親もいるそうだが、ほとんどは、施設を不用品ならぬ、不用人間のゴミ捨て施設くらいに思っているようだった。

しかし、そんな人たちでも、人間としての能力が『低い』わけではない。
ただ、現在の社会に適応する能力が欠けていると言うだけである。
その分、他の能力が高い。

例えば、テーブルのボルトを延々と外す行為は、忍耐と集中力が必要だし・・・それ以外の人たちの能力は思いつかないが、それでも、こうした精神弱者と言われる人たちの中には、絵を書いたら、とんでもない傑作を描く人もいる。
一度、僕の知人は、それを試したみた。

すると、傑作を生み出す人はいないようだったが、ほとんどの人たちは、絵を延々と書き続けていたそうだ。
もちろん、子供のようにキャンバスからはみ出してしまうし、何を書いているのかさっぱり意味不明なものも多かったようだが、それでも、現在の社会に適合しないかもしれないが、どこかに、何かの能力があるのは確かなのである。

ダスティンホフマンとトムクルーズが主演の映画【レインマン】は、本当に、現実にあることなのである。それも当たり前に。

またまた、爺さんの匂いの話からそれたが、匂いによって記憶が蘇るってことだ。
もしかしたら、記憶を呼び覚ますのに匂いというのは、すごく重要なのかもしれないとも思う。

僕は写真屋として、ずっとこう言ってきた。
「写真とは、記録でもあり、記憶でもある」と。

とりとめがなくなってきたので、この辺で。

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