まただ、またしても、ヤギを飼い始めてから、常につきまとうヤギのオシッコとウンコ問題。
犬というのは、自分の小屋の中ではオシッコもウンチもせず、なるべく遠くでするようになっているのだが、ヤギは、自分の小屋の中で平気でやってしまう。
そのくせ、オシッコやウンチの上には座りたくないらしく、自分がいたした場所を避けて座っている。
もっとやっちゃうのが、毎日食べるおいしいエサが投入されるエサ入れの中にも平気のへっちゃらでウンコを落とす。
そのくせ、ウンコが入ったままのエサ入れに、どんなに美味しいエサがあっても食いつかない。
おかしいだろーよ、ヤギ!
まあ、まったくわからないわけでもない。
ヤギのメインの食料は草である。
そこらへんに生えている。
草は食べるけど、土がついたものは食べない。
ほんの数ミリの差で、食べるか食べないかが決まる。
生えている草のほとんどは土についていないが、刈って与えた草は土の上に寝る。
その際、土に触れた草は決して食べない。
これは、エサと敷き床が同じ草であるため、エサなのか敷き床なのか区別するための本能であると思われる。
土についていたらそれは「敷き床」で、ついていなかったら「エサ」という判断なのだろう。
それがオシッコとウンコにも同様のことが言えるのだと思う。
エサである草が生えている場所に、ところ構わずオシッコとウンコを落としていく。
その際、オシッコやウンコがついた草は、「エサではない」という判別をして、自分のオシッコやウンコを食べてしまわないようにしているのではないかと思う。
それじゃあ、特定の場所で致したり、せめて小屋の中では止めれば良いと思うのだが、そこには、れっきとした理由がある。
小屋の中には、敷き床となる草が敷かれている。
そこにウンコをすることで、ウンコに付いている微生物が、敷き床の草に付く、さらにオシッコがかかり湿り気を与えることで、微生物による発酵が進む。
発酵する事で発熱し、冬でも暖かい小屋が実現されるというわけである。
もちろん、敷き床の草も、ウンコも発酵堆肥化されて、とっても良い。
なので、小屋の中でする分には良いのだが、その習性が、決して小屋の中だけで行われず、所構わず行われてしまうことに問題がある。
ただ、こちらもきちんと理由がある。
草を食べながらウンコをする。
移動して、またウンコをする。
これを繰り返す事で、エサとなる草に養分を還元している。
だから、特定の場所でウンコをしないで、所構わず致すのである。
そんなわけで、現在は、ヤギをロープでつないでいるのだが、たまに、なぜか、ロープが取れてしまっている時がある。
以前は、オスヤギのOPERAのシャックルが外れることが、何度か続いた。
これは、シャックルを地面にズルことで、同じ方向に一定の力がかかり、偶然にもネジがクルクル回って外れてしまうということが判明した。
そのため、シャックルを引きずれないように改良したことで、改善した。
最近は、メスヤギのフーちゃんが、首元に付いたスナップ(首輪とロープを繋ぐ部分)を外してしまうということが二回続いた。
どうやら、偶然に外れた一回を覚えて、二回目も同じようにやってみたら外れたのだと推測した。
山を上がった場所につないでおいたのだが、いつの間にか、スナップを外し、下に降りてきていた。
そして、ヤギ小屋に入ればいいのに、ガレージや麦や米のおいてある小屋に侵入して、そこで、麦と米を食い荒らし、ガレージの中で休んでいたのか、ウンコとオシッコまみれにしていた。
ガレージ内は、まだまだ作業があるため、木屑をそのままにしている。
それが心地良かったようで、木屑のたまった場所に陣取り、そこで、放尿、脱糞を繰り返していたと思われる。
ガレージに入ると、「ぷ〜ん」と、二年間嗅いできた、あのヤギのオシッコ臭が漂ってきた。
「かぁ〜、やられた〜」ガレージ中に、ヤギのウンコが落ちていて、置いてあった段ボールや、溜まった木屑がヤギのオシッコで濡れていた。
仕方がないので、段ボールを放り出し、散乱している木屑やおがくずをかき集めてガレージから出した。
すると、、、
キレイになりました〜 *・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
あれっ?これって、ヤギのおかげ???とも言えなくもない。
僕も、もうすぐ生まれてから50年が経とうとしているので、わかっちゃいますが・・・・
「これでいいのだ」
ってことなんだよな。
わかりたくない気持ちはあるが、わかっちゃいるので仕方がないのである。
ウンコヤギは、ウンコを撒き散らしても、ここにいる意味があるのだ。
ただし、同じことを繰り返させることはないのはもちろんである。
フーちゃんのスナップは、針金でガッチリ固定して、人間でも外すのは難しいくらいにしておいた。
これで、勝手な行動ができないだろう。
本来の僕の気持ちで言えば、ヤギも犬もニワトリも、みんな、みんな、自由に生きればいいし、その権利があるし、完全な放し飼いにしたい。
一緒にいたい時には、お互いに近づき、そうでない時には、自由にしていればいい。
しかし、そうそう、平和に生きることができないということがわかった。
もちろん、人間である僕もそうだが、全員が自分勝手である。
自分の利益のために、他者の利益を侵害するのだ。
ニワトリは、せっかく頑張って撒いたタネを、土を引っ掻いて掘り出し食べて回る。
ヤギは、少し生えてきた苗を食べてしまい、大きく育つことも、実の収穫も待てない。
そして犬は、ニワトリが生む卵を待たずに、ニワトリを襲って食べてしまうのである。
実のなるまで待ては、種や苗の何倍も大きく、何倍も美味しいものが食べられる。
ニワトリを捌いて食べてしまわなければ、毎日のように、おいしい卵が食べられる。
しかし、アニマルズは、待つことができないのだ。
このため、電柵やネットで畑を囲う必要があるし、犬は放すことはできない。
ヤギは、自分の小屋よりも、広いガレージや四方を囲まれている物置小屋などに侵入してしまう。
「これだけはやめてくれー」
と、言いたいことを、やっぱりやるのである。
ってことで、ガレージはきれいになったのでよかったけど、動物たちは、やっぱりいいとこばかりではなく、厄介なことも多々あるのである。
それでも起こったことは「これでよし」とし、次には起こらない対策を施す。
僕の場合は、動物相手のことが多いが、こうしたことは、人間社会で頻繁に起こっている。
何か厄介ごとが起こると他人のせいにして、その出来事から学びとることを怠ってしまう。
それがなぜ起こったのか?何を経験し、学び、得ようとしているのか?そうしたことに目を向け、思考を巡らすことなく、「あいつのせいだ!」と怒りに囚われてしまうのだ。
僕も、何度もそうしたことを経験した。
今までの人生でもそうだが、この二年間、動物を飼い始めてからもそうだ。
どうしたって、その出来事を目にした瞬間に「これでいいのだ」などとは言えない。
まず一発目には「このヤロー!」となるのであるが、だんだんと冷静になってくれば、「これでいいのだ」と思えるようになる。
僕の場合、動物相手だと言うところがまだマシな点である。
これが人間同士だと、なかなか簡単に「これでよい」となれない。
なぜか?
動物の場合は、彼らの行動を変えることは、正直言って難しい。
変えられないことはないのだが、変わることを待つよりも、自分自身が行動し、なんらかの対策を取ることの方が理にかなっているとすぐにわかる。
なので、一瞬は、怒りを覚えたとしても、すぐに「自分は何をすべきか?」と言う考えに変わる。
しかし、人間の場合は「相手が変わる」と言うことを期待する。
そのため、何も変わらないことが多い。
ここで、「動物相手のように、相手はそうそう変わらない。だから、自分自身を変化させよう」と、考え方を変えることができれば、解決まで早いのだが、、、
とりあえず、ヤギは、ロープから解けないようにしてあるし、ニワトリは放し飼いだが、畑の周りは目の細かい網で囲った。
犬は、リードから放さないようにしている。
とりあえず、これで、今のところは一件落着である。