愛とは「求めず、奪わず、ただ与えること」
愛とは「無償の愛」
と、いいますよね。
愛とは、ただ単に与え続ける。
その通りだと思います。
しかし、最近少し感じていることは、
「与えたいから与える」ということ。
見返りは求めないが、見返りがあると嬉しい。
たとえば、親が赤ちゃんの面倒をみる。
面倒をみたいからみる。
そして、笑った顔を見ると嬉しい。
嬉しいから、また面倒をみたくなる。
きっとこれの繰り返しだろう。
愛の人マザーテレサで考えてみる。
貧困で苦しんでいる人達を助けたい。という想いから始める。
ってことは、やりたいからやっている。
その結果、穏やかに最後を迎えられる人が増える、
少しでも楽になってくれることに喜びを感じる。
もっともっと多くの人に、楽になってもらいたいと思う。
今まで「与える」ことだけに注目していた。
自分がどう感じるのか?とういうことは、脇に置いておいて。
でも、本当は「与えたい」「喜んで欲しい」という想いから与えるのだと気がついた。
こんな風に書くと、「そんなの当然だろ?」と思われるかもしれないが、
実は、当然と受け止めていなかった。
愛には、少しばかり苦痛と感じる苦痛や忍耐と感じる忍耐があると思っていた。
確かにある。それは間違っていないと思う。
でも、そう感じてしまうのは「信じてない」ことに原因があるように思う。
例えば、子供が悪さばかりする。
そのことによって苦痛を感じる。忍耐が必要になる。
でも、子供の成長を信じていれば、そこには希望の光がある。
いまの苦痛や忍耐は、希望の光に向かう道筋だと捉えることが出来れば、
愛になる。そんな気がする。
この世の中には、本当は「時間」などないらしい。
それをまず証明したのはアインシュタイン。
光の速度は一定だが、時間は変化する。
時間というのは、「時が来る」のではなく「その時に行く」というものであるようだ。
「あれっ?もうこんな時間」
遅く感じたり、早く感じたりすることがあるっだろうが、
これも、時計がカチカチ動く時間と、僕たちが旅する時間旅行の時間は少し異なっているようだ。
でも、この時間を使うことで、この世界ではいろいろなおもしろい経験が出来るようだ。
その一つが、なかなか成長しない我が子にもあてはまる。
「未来を確定する」(信じ切って、待ち続ける)というおもしろいゲームが出来る。
別名「忍耐ゲーム」とも言える。
このゲームは、「分からない、見えない、知ることが出来ない」という未来の特長を使うゲームで、
「分からないけど分かる、見えないけど見える、知らないけど知っている」ということを心の深い部分で確信すると、その通りになる。
しかし、目の前の「現実」というフィールドには、数々の障害が現れ、
この確信した想いを揺らぎ、破壊しようとする。
それを阻止し戦いながら進み、その間に成長し、いつか確信が現実のフィールドに現れてくる。
きっとこれが、本当の人生ゲームなのであろう。
そして、人生ゲームの最も強力かつ重要なアイテムが「愛」なのだろう。
人生ゲームの中で「愛」の使い方をマスターして、
使いこなせ、いつでも発揮できるようになれば、
人生ゲームの勝利者になることは間違いなさそうだ。
ただし、愛マスターへの道のりは遠い。