書籍「神様とのおしゃべり」に「ミソカモウデ」が勧められている。
ミソカとは三十日のこと、毎月三十日に神社などに行って、お参りをすると言うものだ。
昔から、神社には、しょっちゅう行ってお参りをしている。
それを、毎月三十日と言う決まった日に行くようにすると言うだけなので、なんの苦もなく先月から始めている。
ただ、神社までが遠いって言うのが難点ではあるが。
今までだったら、と言うか、一般的には、歩いて行ける場所に神社はある。
日本中、ほとんど、どこに住んでいてもそうだろう。
今の僕は、一番近い氏神様となる神社まで、車で10分かかるので、その点だけはネックである。
さて、神社へ行くと言うと、お賽銭を持って行くわけだが、僕は、お賽銭用に貯金をしている。
どこかのお土産屋さんで買った地蔵の貯金箱だ。
きっと、何年か前にお遍路してた時に買ったものだ。
いつもは、満タンに溜まったら神社やお寺に持って行ってお賽銭にしていたのだが、今回は、溜まってないけど、全部持って行くことにした。
早速、ジャラジャラと出してみる。
僕は、買い物などで小銭を受け取ると、50円以下はこの貯金箱へ入れている。
東京に住んでいるときは、ほとんどがカード払いなので、なかなか小銭が貯まらなかったが、愛媛にいると現金払いが多くて、貯金箱の中にすぐに貯まるのだ。
今まで、いくらくらいあるのか数えて見たことはないのだが、今回は、数えてみることにした。
全部で、1,912円
意外と入ってた。
お賽銭としては、多い方だけど、寄付金と考えると微々たるものだ。
よく「ご縁がありますように」と言って、お賽銭に「五円」1枚だけを入れる人がいるが、神社だって宗教法人としての経営がある。そう思うと、五円って・・・
以前、スタジオに神社を親から次いで、神主をやっていると言う方が来た。
その方に神社経営について聞いたことがあるのだが、明治神宮とか靖国神社とか大きい神社の場合は、お賽銭も莫大な金額になるが、小さい神社では、お賽銭は微々たるもの。
経営の頼りは、法人からの寄付と、神社の団体からの分配金(儲かっている神社から、貧乏な神社に分けてくれる)らしく、経営は結構大変とのことだった。
たぶん、その話を聞いてから、僕は、お賽銭の額を増やしたような気がする。
今までは、「ご縁がありますように・・・はい五円」ほどではないが、大した額は入れていなかった。
神社とは、国が保護しているものだとばかり思っていたからである。
実際には、そうでもないことを知り、少しでも神社経営にプラスになるように、ほんと少しだけど、多めにお賽銭を入れるようにしているのだ。
まあ、とはいえ二千円弱だけど・・・
神様とのおしゃべりに、こう書いてあった。
お賽銭で入れる金額は、「無くなっても、すぐに入ってくると思っている金額である」と。
まあ、その通りなのだ。
痛くもかゆくもないと思える金額を入れる。
それを思うと、聖書の一節を思い出す。
皆が献金をしている場面で、一人の貧しい女性がすごく少ない額を献金した。
その額を見た周りの人たちは、その女性のことをあざけた。
しかし、イエスは言った。
「その女性は、皆の中で最も信仰の厚い人です。
なぜなら、他の人たちは、持っている中の一部を出しているだけだが、その女性は、持っている中のほとんどを献金に捧げているからです」と。(正確には全部だったかな?)
ほとんどの人たちが、お賽銭または献金に出す金額は、痛くもかゆくもない額だが、貧しい女性は、痛みの伴う額を出している。
どちらがいいと言うことはないが、この貧しい女性が、献金してしまったことによって飢えてしまうとは思えないのだ。
イエスは、言っている。
「カラシ種ほどの信仰があれば、”山よ動け”といえば、山は動くのです」と。
そしてこうも言う「あなたの信じた通りになるように」と。
貧しい女性は、きっとこう思っていたとだろう「大丈夫!」と。
大丈夫、これだけを信じることができていれば、いや、大丈夫とも思わないほどに、大丈夫であることを信じていただろう。
信じるとは、五円や十円のお賽銭のようなものである。
五円や十円を放り投げながら「きっと、また同じ金額が手元に戻ってくる」などと思う人はいないだろう。そんなことを信じることもなく、そんなものは当然のことなのである。
この日本で、十円に困る人などは、ほぼいないし、十円が手に入らない人などもいないのだから。
僕は思う。
もしも、なんの意識もせずに、簡単にお賽銭として一万円を入れることができる人物になったら、僕はきっと、お金持ちになるんだろうなぁ、と。
それよりも、一万円なら祈祷してもらうかな?いやいや、そう言う考えがセコイな。
よく、お金は流れているのだから、出せば入っていると言われる。
僕は、こう思う。
出しても勝手には入っては来ない。
お賽銭のように、出しても戻ってくると、意識もせずに信じているのなら戻ってくる、と。
だから、意を決して出しても、入っては来ないだろう。
意を決さずに当然にまた入ってくると信じていることが重要なのだが、物を買うとかサービスを買うとかでは、結局は、物やサービスを受け取った時点で、等価交換されているのだから、正確には「出した」とはならない。
だから「出す」と言うのは、見返りが何もない状態で出すと言うのが「出す」と言うことなんだろうと思う。
お賽銭であっても「お願い」と引き換えに出していれば、それは本来の「出す」ではないのだろうな。
だから、出せば入ってくると言うのは、そうそう単純ではないと思うのだ。
一番簡単なのは、これだろう。
神様とのおしゃべりか悪魔とのおしゃべりに書いてあったことなんだけど、人にプレゼントをあげる。それも、全然知らない他人にあげる。
そんな機会はなかなかないが、四国はそれができるようになっている。
お遍路さんに対して「お接待」と言う制度があるのだ。
全然知らない人に、色々とあげたり、お世話をしたりするのだ。
とはいえ、僕は何にもやったことないけど。
まあ、徳の高い、いい土地に来たもんだなぁ。と実感するよ。