山に来てから、よく昔のことを思い出す

東京にいる時は、こんなことはなかったのだが、山に来てから、よく昔のことを思い出すようになった。

大きな理由だと思われるのは、頭を使わない単純な作業が結構あるせいだと思う。頭を使わないのは、テレビを見ていたりしても同じだろうけど、それは、頭を使わないのではく、頭を使えない状態になってしまっているということだろう。
それに比べて単純作業をしている時は、頭は使える状態にあるが使っていないというだけだ。さらに、体を動かしていることで血液の巡りはよく、脳にもしっかりと酸素供給されているため、頭が動く状態になっていると思われるのだ。

原理としては、そんな感じだろうけど、本当のところ、昔のことを思い出すというのは、何か意味があるのではないかと思っている。

内容は、夢のようにすぐに忘れてしまう。ただ、思い出しているときに「これは、俺も最期が近いのか?」などと思ってしまうこともある。よく、死の間際に走馬灯のように今までの人生が駆け巡るという。走馬灯のようには駆け巡りはしないが、こう頻繁にいろんな過去のことが思い出されるのに、何の意味もないとは思えないのである。

さて、では、今死んでは困るか?と考えてみる。まあ、やり残していることはたくさんあるが、そんなことは、いつになっても同じことだ。歳を取ったからと言って、きっちりと身辺整理を終えて死を待つだけの人生など、真っ平御免である。やはり、いくつになっても、常にチャレンジしていたのだ。

そう思えば、今でも、いつでも、同じことだということになる。ただ、僕の魂が帰りたがっているか、まだ、この世界でやりたがっているかだけである。どっちなのかはさっぱり伺い知らぬところだが、僕のやることは、今、何をすべきか?ということを見つけ、やるだけであることに変わりはない。

さあ、明日、目覚めても、目覚めなくても、明日、やることを決める。そして、目覚めたら、明日やることをやるだけである。昔のことを思い出すことに意味はあるか?それをいちいち考えることはせず、その意味は、そのうちわかるかもしれないし、わからないかもしれない。ただ、今は、どうでもいいことなのである。

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