イノッチ捕獲!それも2日連続、さらにデカイ!

おとといの昼、イノッチ(イノシシ)ハンターのBOSSから、「下の竹やぶに、みかん箱くらいの大きさの箱持ってきてくれる?」と言う電話が来た。

竹やぶといえば「たけのこ」

「入るかなぁ」とつぶやいていたので、「きっと、たけのこがいっぱい取れちゃったのか?」と思って、以前、ジャイアンからもらった箱を持って、竹やぶに向かった。

すると、そこにいたのは、イノッチだった!

それほど大きくはない、重さ的には20kgくらいか?

詳しいことは知らないが、なんとなく、人間で言ったら、年の頃は15、16歳の少年という感じがした。

暴れまわったからなのか、全身泥だらけ。

みかん箱に入れてみると、ちょっと出ちゃうけど、まあ大丈夫。

全身が泥だらけで寒いからなのか、それとも、これからの運命に怯えているのか、ブルブルと震えていた。

そして、昨日の夕方にも、BOSSから電話がかかってきた。

「昨日の竹やぶのあたりに来てくれへん。急ぎで」とのこと。

「まさか、また今日もイノッチ捕獲なのか?でも、今日はみかん箱持ってきてとは言われなかったな?」とりあえず、長靴と革手袋を装備して、急いで向かった。

すると、そこにいたのは、で、で、デカイ!!

この写真では、わかりにくいけど、昨日とは、全く大きさが違う。

100kg級の超大物がかかっていた。

BOSSが、力一杯ロープを引っ張っている。

それを、僕が代わり、ロープを木に結びつけた。

その後、BOSSが、狩猟用のナイフで、心臓を「グサリ!」

よく、ドラマや映画で、グサッと刺されたり、バンッと打たれたりして、すぐに、バタッと倒れて死んでしまうと言うシーンと、主人公なんかだと、どんなに刺されても、打たれても、立ち上がって向かっていくというシーンとある。

いつも、「どちらも嘘くさいなぁ」と思っていたのだが、実際に、グサリとやられた、これだけの大きさの生き物が、どう死に至るのかというのを初めて目の当たりにした。

BOSS曰く「デカすぎて、(急所に)届いてるんだか、ようわからん」と言っていたので、ピンポイントにやれていないのかもしれないけど、それでも、脚2箇所と鼻を固定して、仰向けにして、一発ではなく、かなり切っていたので、相当、入っているはずだ。

にもかかわらず、動くのだ。

グサッとやられて、すぐバッタリと死んでしまうのではなく、グサッとされても、そう簡単には死にはしないようなのだ。

もちろん、まともには動けないが、それでも、力を振り絞って動こうとする。

息が出来ないとは思うが、それでも、体全体が、大きく息をしようとして、膨らんだり縮んだりしている。

肉体の生命力というのは、このくらい力強いものなんだな。と、実感したのだ。

その後、BOSSと二人で、なんとか道路まで引き上げようと思ったが、正直言って、全く無理。

それでも、なんとか一段上まであげたところで、もう一人のイノッチハンターいまさんが到着して、三人で引き上げにかかった。

あと少しというところで、イチローさんが到着。

さすがに、四人いれば、全く楽勝ではないが、なんとか道路まで引き上げて終了。

その時には、イノッチの魂は、すでに天国に帰っていた。

僕の「死」についての考え方は、輪廻天性なので、肉体の死が全ての終わりを示すのではなく、魂は天に帰り、また、別の肉体として生まれてくるという考えを持っている。

そのため、肉体の死を目の当たりにしても、悲しいとか、かわいそうとかは思わない。という考えで生きてきた。

そして、今、人間ではないが、100kg級の肉体を持つ哺乳類の死を目の当たりにした時、どう思うのか?自分の感情がどう反応するのか?と気になっていたのだが、実際には、予想よりも遥かに落ち着いていた。

生き物の肉体は、死を迎えるわけなので、死には抵抗するだろう。

しかし、魂は、きっと、どちらでもいいに違いないのだ。

縛られているイノッチを、上から見下ろしていると、イノッチの目が、じっと僕を見ていた。

さすがに、この大きさである、それなりの年齢だろうから、イノッチの方も落ち着いている。

昨日の、若者のように、全身泥だらけなどということはなく、フサフサの綺麗な毛のままである。

彼女(メス)の目が、じっと、僕を見ている。

もちろん、それは、感じる感情的にはいいものではなかった。

きっと、彼女だって、僕を睨みつけているに違いなかった。

それでも、かわいそうでもなければ、悲しくもなく、哀れでもない、ただ、そこに存在するというだけだった。

これが、自分にとって重要人物であれば、また、違う感情なのだろうとは思うが、今回のイノッチの死に関して思ったことは、ただ、これだけであった。

「どんな命も尊重されるべきである」

この言葉の意味は、僕的には、「命=肉体が生きていること」ということだけではないと思うのだ。

ただ、生きていれば尊重されているわけではない。

肉体も、精神も、魂も、生きているよりも、活かされていることの方が大切だと思うのだ。

例えば、食肉として育てられ、殺され、食べられる家畜たち。

そこには、命への尊厳が、ないように感じるが、私たちが、それを感謝していただき、自分の肉体として活かすことをすれば、その命は尊重されることになるのではないか?とも思う。

もちろん、動物を殺して食べるという行為を美化するつもりはないが、生き物が生き物を食べていくことは、この地球における生態系を維持するために重要な要素であることは、絶対的な事実であるのだ。

ベジタリアンでさえ、植物の命をいただいている。

植物だからといって、食べられたいと思っているとは思えないのだ。

果実は、食べられることで、子孫を増やすわけなのだが、その命を尊重するのであれば、水洗トイレに種を流すのではなく、野に種を落とさねければ、その果実の命を尊重することにはなっていないように思える。

「どんな生き物も、肉体の生命が他者によって侵されるべきではない」と考えて実行していては、この地球は、すでに生命豊かな星ではなく、生き物が増えすぎて、逆に滅んでしまっているかもしれない。

だからこそ、人口の爆発的増加が懸念されているのではないだろうか?

僕が懸念するのは、単に人口が増えることではなく、人間達が、生き物の命を尊重しない、過剰な生産や乱獲を繰り返し、それを、いとも簡単に捨てていることではないかと思う。

科学的な薬品を大量に使い、生産能力を増強する。そうした結果、病気などを引き起こす。

乱獲によって、生態系は崩れ、人間にとっても、大切な資源は枯渇していくにもかかわらず、乱獲は終わらない。

など、「人間を瞬時に殺さない」ということだけを、命の尊厳として考えているだけで、日々摂取する、自分たちの知らない薬物によって、ジワジワと肉体を弱らせていくことや、排ガスなどを空気中に撒き散らすこと、食べ物をどんどん残飯として捨てていくことなどは、「命の尊重」とは、無関係だと考えられているような気がするのだ。

そうではなく、どんな生き物でも「肉体の死に対して尊重する」ことがなされるべきであるし、過剰な殺生や破棄、薬品の使用、化学物質による汚染なども、命の尊厳として考えられるべきであると思っている。

そして、命とは、肉体の死をもって終わりではなく、誰の目にも見えないが、ほとんどの人たちが信じている「魂」の存在を認め、魂は生き続けることを尊重することではないだろうか?

だから、僕たちは、お墓参りをするのであろうし、ご先祖に話しかけたりするのであろう。

イノッチの命は、きっちり、僕の肉体で受け止めたいと思うのだ。

そして、彼女の魂は、また、次の新しい旅に向かって、ウキウキしながら出かけていったことを信じている。


via Mark な 人生



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