神のデザイン<水源地の崩壊>

台風が去ってからも、蛇口をひねると、まだ濁った水が出てきていた。

取水は、東京に行く前に止めておいたので、もしかして、あまりの大雨で、貯水槽に水が侵入しているのだと思い、水源地を見に行くと・・・

あらま。

池が2/3ほど、土砂で埋まっていた。

この池は、15年ほど前に作られたようなので、最低でも15年間は、これほどの大雨はなかったということなのだろうが、こんなに大量の土砂が流れ込んでるってことは、当日は、相当な豪雨と土砂が流れる轟音が轟いていたんだろうな。

もし、山にいたら、めっちゃ怖かったかもしれない。

で、次に向かったのは、少し登ったところにある取水口へ行ってみた。

やっぱり。

取水口は、流されて、途中で土砂に埋もれてました。

で、気になったので、さらに上に登ってみることに。

すると・・・

あら!?

今まで、木の枝とか、葉っぱとかが堆積していたり、引っかかっていたりしていたものが全部流れて、なんとも美しい景観になってました。

さらに、水の量が半端なかったためか、沢の脇の部分まで流されていて、綺麗な道が出来てます。

(*もともと、なんとなく通れる感じではあったけど)

そして、

こんな感じの滝壺が、無数に出来てました。

今までにないほどの水量が上部から落ちてきたため、思いっきりえぐられたのがわかります。

恐ろしいまでの豪雨と、とてつもない水量は、そこにいたとしたら、間違いなく生き物に死をもたらすものであったと思うけど、その後に残った景観は、神のデザインと呼べるような美しさだった。

本当の意味での「自然」というものを見た気がした。


一般的に、多くの人が「自然」と思って見ているものは、そのままの自然ではなく、人の手が入った自然がほとんどだと思う。人が手を入れなかったとしても、踏み入ることで形成された部分も多くある自然の景観だと思う。


だけど、僕が見たものは、自然が作り出したままの自然だった。

「これが ”自然” なんだ」

自然って、美しいというけれど、本当にその通りだと思った。

でも、その感覚は、なんだか不思議だった。

自然が美しいと思うことは、人間が本来持っている感覚なのだろうか?


街にいると、美しいデザインとは、人が創り出したものを示す。

自然のことを、「デザイン」とは言わない。

しかし、どう考えても、どう見てみても、これはデザインされているとしか思えん。

誰かが、こうすると決めてデザインして、作り上げているとしか思えなかった。

それができるのは、「神」という存在しかない。


この山にいると、神を見る。マジで。






via Mark な 人生



Your own website,



Ameba Ownd

-----

-MARK'S LIFE:日常

© 2024 Mark's LIFE