先日、この山で、知り合った人が、なんと、板橋の仲宿に住んでいた。
板橋区は、僕の第二の故郷と言っても過言ではないほど。
上京したての頃に、散々お世話になっていた場所である。
その中でも、仲宿商店街は、週2、3日は訪れていた。
とはいえ、行く場所はいつも同じ二軒のお店。
写真の現像を頼みにいく『カメラの和光堂』と、定食屋さんの『グリルふじ』である。
仲宿に住んでいるという彼に、和光堂とグリルふじのことを聞くと、知ってはいるが入ったことはないとのこと。
まあ、今時、写真の現像を出す人というのは、趣味でやっている人くらいなので、なかなか店に用はない。
グリルふじの方はというと、いつも閉まっていると言う。
「そんな、バカな!」そう思って調べてみると、近所に移転していた。
昔、グリルふじの食べログのレビューは0軒で、僕が第一号で書き込みをしたのだが、あれから何年か経った今、Google Mapのレビューを見たら、なんと121件ものレビューが書かれていた。
そして、そのほとんどが、めちゃめちゃおいしいとか、コスパ最高とか、そんな感じ。
昔も美味しかったが、もっと、美味しくなっているのか?それとも、この美味しさに多くの人たちが気づいてきたのだろうか?そんなことを思った。
レビューの中で、面白かったのが「大将が無愛想」と言うもの。
昔から、大将は口数が少ない。
「ぃ、らっしゃい」と「あらっす」の二言を短く言うだけ。
でも、それがいい。
本人も「無愛想なのが売りだから」と言うが、本当のところは、たぶん、以前フロアをやっていたのが、お母さんで、お母さんは、いつもニコニコとして、優しい口調で、お客さんみんなに話しかけていた。
だから、店の中は、お母さんの優しい話し声と笑顔と笑い声で溢れていたので、大将は、ベラベラと喋らず、寡黙にうまい飯を作り続けるのが仕事だった。
それが、大将の大将たる人格を育て上げてきたのではないかと思う。
もしも、お母さんの存在がなければ、大将も、何かとお客さんに気を使ったりして、もしかしたら、今のようなうまいメシではなく、レベルが落ちていたかもしれない。
それではいけないし、今後も、そうなって欲しくはない。
現在、フロアを担当するのは、大将の奥さんであると思うが、月日が経てば、きっと、あの頃のお母さんのように、奥さんの優しい声と、笑顔と笑い声で満たされるグリルふじになるだろうと、僕は思っている。
ってことで、ここで、大将無愛想問題についてまとめておくと、
大将は無愛想でなければならない
と言うことである。
ちなみに、遠くから見ると、どっしりとしていて怖そうに見えるが、近くで見ると色白で、ふっくら丸い顔をしていて、笑うと妙に可愛い笑顔であることを付け加えておく。
グリルふじの最大の魅力は、やっぱり【うまさ】であるが、うまいものと言うだけでは、庶民の手の届かない料理も、世の中にはごまんとある。
僕も、かつては、東京のうまいものを食べ回ったものだが、コロナ流行の昨年から、お手軽ながらも高級なフレンチレストランは、一斉に値上げをしてしまい、本当に高級なフレンチになってしまった。
そうなると、今までのように気軽に「フレンチ食いに行こー」くらいのノリでは行けなくなった。
さらに、近年のフレンチレストランは、それまでの牛肉から、鹿肉などのジビエにシフトしている。
山に来た僕としては、ジビエというのは、お洒落でかっこいいものではなく、そこらへんのおっちゃんから貰うものというようになっていて、都会人には珍しい代物でも、僕にとっては、そこらへんに転がっているものくらいの感覚なのである。
さらに、さらに、山菜とか、野菜とかでも、「〇〇から取り寄せた有機野菜です。素材の味を生かして・・・」と言われても、僕なんか、今採ったばかりの自然栽培野菜で、素材の味は遥かに優ったものを日々食べてしまっている。
なので、フレンチは、フレンチらしく、料理としてキッチリ仕上げて、カッチリ丁寧に育てられた牛肉を、ボッテリと出して、その上に、シッカリと手を掛けたソースをタップリと掛けて頂きたいものだと、最近は思ってしまうので、もしかしたら、もう、高級フレンチとか興味が出ないかもしれない。
パスタにしても、トマトソースは、自然栽培トマトで激ウマトマトソースができるし、ベーコンも自分で燻製して、ニンニクも唐辛子も自家栽培、残りは穀物だけとなってしまう。
そのうち、ピザ釜も出来上がったら、イタリアンも行かなくなってしまうかもしれない。
フレンチとかイタリアンとか、そういうのは置いておいて、グリルふじのTHE洋食に話を戻す。
昔は、しょっちゅうカキフライを食べていたのだが、今は、すでに時期が終わったため、今回は、チーズ入りメンチカツをオーダーした。
いつも通り、ご飯は大盛りで、ボリューム満点、ここからさらにプラス100円で大盛りが出来るというのだから、一体、どんな量になってしまうのか?
今まで、プラス100円の大盛りを頼む人を見たことはない。
お味の方は、相変わらずで、美味い!
ご飯大盛りで、揚げ物の肉なので、勤労男子向きではあるが、今では、お客さんの中に女性も多くなっている。
やはり、そこは、うまさとコスパの良さに惹きつけられてくるのだろう。
いつも12時を過ぎると混むので、今回は、なんとか12時前に到着できた。
のだが、すでに、外には待っている人たちがいた。
久々に、メニューの看板を見ると・・・
変わってない。
昔も今も、同じ内容と値段である。
世の中は、どんどん値上げをしている。
これは、利益を増大させるためではなく、仕入れコストが上がっているからだろう。
まあ、でも、当然なのだが、ここ30年という期間。
先進国のトップ2を走っていた日本の経済は、ほぼ停滞したままだが、アメリカの人口は1.5倍になり、GNPは3.5倍なのに対して、日本は、2倍に満たない。
イタリアと日本だけが、30年前から倍以下であり、さらに、2009年から2019年の10年間で下がっている。
これを考えると、輸入品の価格が上がっているのは当然のことで、それによって、仕入れコストが増大しているのは明らかなのである。
GDPの比較からでも、飲食店などが料金を上げざるを得ない現状をみることができる。
しかし、料金が上がり、物価が上がれば、インフレは進む。
今回のコロナ騒動で、世界中がお金を大量に放出していることを考えれば、成長するということは関係がなく、インフレは確実に起こっていく。
頑張って【料金据え置き】なんてことをしていると、あっという間に利益を食われてしまうので、ファンとしては、値上げをしてもらいたいものなのだ。
愛媛でも、飲食店の載った雑誌などをみると、すでに、1,000円でランチが食べられなくなっている。
1,200円など安い方で、1,500円あたりが当たり前になってきている。
それでいて、確実に、グリルふじよりも味が落ちるのだから、、、僕は、行かないけどね。
きっと、少しでも売り上げを増やそうと、新しくサイドメニューも掲示してあったが、こちらも、安い。
トッピングの200円とか250円って、東南アジアの屋台価格じゃないかと思ってしまうほどである。
大将は「商売下手なんで・・・」と、言っていたが「ホント」と思ってしまった。
このトッピング、ミニサイズとかじゃなくて、フルサイズだろうから、倍でもいいのになぁ。
ちなみに、サラダ類も全部手作りで、ちょびっとではない。
女性であれば、サラダだけでもランチは十分というほどに大盛りである。
それで350円なので、きっとみんなミニサイズだと思ってしまうんだろうなぁ。
今回、メンチについている生野菜だけは残してしまった。
愛媛に来て、自分で作った野菜ばかり食べていると、農薬や化学肥料を使った野菜が、あまりにもまずくて、これだけは食べられなかった。
口の中が、なんか、気持ち悪くなってしまったのだ。
でも、自然栽培野菜などを使うとなれば、コストは大きく跳ね上がってしまうので、板橋住民に提供するには、難しいだろう。
そんなわけで、グリルふじを後にし、カメラの和光堂に向かった。
和光堂に近づくと、シャッターが閉まっていることに気がついた。
定休日は、木曜日のはずなので、やっていると思ったのだが・・・
店の前に行くと、ほんの少しシャッターが開いていて、中の電気がついていたので、覗き込むと、『おっ、いたいた』
店長が中にいたので、声をかけてシャッターの隙間から中に入った。
どうやら、緊急事態宣言で、協力要請の対象になっているので、お店を閉めているらしいのだ。
写真屋さんまで、閉めることになるなんて、不思議だけど仕方がないのか。
4年ぶりに訪れたが、こちらも、本当に何も変わりがない。
ただ、世の中が変わったのに、変わりなく営業できているということが、本当にすごいのだ。
僕がよく行っていたのは、まだ、デジタルカメラが世に出てくる前のこと。
大量のフィルムを持って和光堂に来ていた。
それから、デジタルが普及し始め、僕もいち早くデジタル一眼レフを導入。
それから数年で、フィルムは終息し、コダックは潰れ、富士フィルムも業態転換した。
もちろん、街の写真屋さんは、軒並み閉店していった。
そんな中、常連客を中心に、客数が減りながらも営業を続けていた和光堂。
今では、逆に、若い人を中心に、フィルムで撮影する人たちが出てきて、そんな若者の面白エピソードを聞かせてもらったので、嘘のような本当の話をここで披露する。
ある日、若いカップルがカメラをぶら下げて店に入ってきた。
カウンターの上に置いてある、販売用のフィルムを見つめ、どれにしようかと選んでいるのだが、なかなか決まらないらしい。
どうやら選んでいるというよりも、どれを選んでいいのかわからないようだ。
すると、おもむろに、持っていたカメラの裏蓋を開け、そこに入れてあるフィルムの種類を確認していた。
店長はそれを見てビックリ!
当然なのだが、裏蓋を開けてしまっては、感光して、今まで撮影した写真がダメになってしまう。
フィルム時代を知っている僕たちからすれば、あまりにも基本的なことなのだが、デジタル時代の彼らには、それが、どんなことなのかわかっていないらしかった。
隣にいた彼氏らしき若い男性も、肩から立派な一眼レフをかけていたけど、裏蓋を開ける彼女に何も言わなかったところを見ると、どうやら彼も、それがどんなことなのかわかっていないようだったのだ。
店長は、「基本的なことを誰かに教わってから始めればいいのに」と、言っていたが、今の時代は誰かに教わるのではなく、Googleで検索が当たり前の時代だが、裏蓋を開けてはいけないなどということは、きっと、どこにも書いていないのだと思った。
そんな話を30分ほど話して、和光堂を出た。
田舎というのは、変わらないとよく言うが、板橋の方が変わっていなかった。
逆に、田舎は、都会の流行が遅れて流れてきて、その流れに流される傾向にあるが、都会の下町の方が、そうした流行の影響は受けないのだろうとも感じた。
だからこそ、浅草のようなところがいつまでも残り続けているのではないだろうか?
半端な田舎こそ、古き良きものを壊して、新しくしてしまうものなのだ。