相手がどう思うかなど知る由も無い。
自分がどう感じるかしかわからない。
そして、自分が感じたことと同じことを相手が感じるとは限らない。
ただ、自分が相手にすること自体が、自分の気分を悪くするのならやめればいい。
でも、自分が相手にすること自体が、自分の気分を良くするのならやればいい。
やった後は、相手が、どう思うか、どう感じるかは、相手の問題だから。
自分ごとのように相手に接しろと言われるが・・・
自分と相手は違う。
それを、知らないふりして相手に接しても、ちょっとどうかな?
僕は、知らないふりはしない。
自分と相手は違うという認識を持って、相手に接する。
だから、僕が気持ちいいと感じたことを相手も気持ちいいと感じるかどうかはわからない。
という前提のもとに、相手も気持ちいいかもしれないと思って、相手に同じようにする。
相手も、同じように感じるだろうと思っていると、それは、裏切られることも多い。
そうすると、悲しくなったり、裏切られた気持ちになったり、人の気持ちがわからないやつというレッテルを貼ったりしてしまう。
僕は、よくそういうレッテルを貼られていた。
だから僕は、相手も同じかもしれないし、違うかもしれない。
でも、違ったとしても、何をすればいいのかはわからないし、当てずっぽうで「きっと、これをしたら喜ぶんじゃないか?」などという空想に基づいて、相手に何かをしても、ほとんどはハズレなので、そんな無駄なことはしない。
「自分がどう感じるか」それしかわからないのだから、それだけを基準にする。
そして、自分にとって良いと思ったことは、相手にもやってみる。
相手がどう感じるかは、わからない。
ただ、自分が良いと感じたのだから、相手も良いと感じる確率は高いはずだ。
しかし、その確率が、何パーセントなのかはわからない。
その確率を上げるためには、自分と価値観が似たような人を選ぶ。
例えば、趣味のサークルに集まる人たちは、その趣味に関しては、いいなぁと感じるポイントが似ているはずだ。
年齢が近い人たちは、その年代のことや、年齢特有の事柄に関しては、そうだよねと思うポイントが似ているだろう。
同じような収入の人たちが集まれば、同じような買い物をする傾向にあると思う。
そんな風に、共通した事柄がある人たちなら、きっと、自分と近い感覚を持っているだろうから、自分が、いいねーと感じたことは、相手もいいねーと感じる確率が高くなる気がする。
それでも、当然、全く違う面というのもあるだろうが、そうしたら、違う面に関しては、違う人たちと接したらいいだろう。
そういうと、「それでは、親友のような密接な関係は築けないのではないか?」「夫婦や家族などはどうする?」となる。
ここから、人生の難しいポイントが始まる。
似たような趣味の人は、似たようなことで喜ぶ傾向があることはわかる。
しかし、親友や家族など、常に密接な関係を築いている相手とは、確率が高い事柄もあれば、低い事柄もあり、低い事柄によって「価値観が違う」と言ったり「あいつはバカだ」とか「わかってない」とか言って罵ったりしてしまい、しまいには、愛していたはずの相手が、最も憎い相手に変わってしまったりする。
これは、「相手も同じ価値観を持っている」という幻想をいだいてしまった結果である。
よく離婚の理由に出てくる「価値観が違う」というセリフだが、価値観は違って当たり前で、全く同じ人は、この世に1人も存在しないだろう。
逆に、重要な部分で、価値観が違うからこそ夫婦になるのではないのだろうか?
「相手も同じように感じる」
という幻想を捨て、人はみんな、違う感覚を持っている。
だけど、他人の感覚などわからないので、自分の感覚で「いい」と思ったものを相手にもやりたかったらやってみる。
そこから先は、相手がどう感じるかは、相手に任せるしかない。
そして、自分の感覚で「よくない」と思ったことは、相手にもやりたくなかったらやってみない。
やらないことで、相手がどう感じるかは、これも、相手に任せるしかない。
相手が、自分とは違う感覚を感じたら「ああ、そう感じるんだ」と、学んだらいい。
でも、その学びは、予想や幻想に対して確率を上げるかどうかはわからない。
ただ、今後、相手に「やる」か「やらないか」を決める判断材料として使うといいだろう。
【まとめ】
自分と人は違う生き物だってことだな
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