草に埋もれ育つ苗と、単独で育つ苗

みかんを食べた後に出てきた種を、鉢に植えておいたところ芽が出た。
ゆっくりとではあるが、すくすく育ち苗は10cmほどに成長。

ほぼ、ほったらかしにしていたところ、二つの鉢に変化があった。
一つは、草がボーボーに生えてきたのだが、もう一つは、草がほとんど生えなかった。

これは、単純に、土の表層部分に、草の種が残っていたか、いなかったか、だけだと思うのだが、この草によってかよらずか、苗にも変化が現れた。
草に埋もれて育っている方の苗は、虫にまったく食べられていないのだが、草が生えていない方の苗は、虫に食べられていた。

農薬も肥料も使わない自然栽培を行っているが、自然栽培を行っている人たちに聞くと「植物自体が強くなれば虫に食べられにくくなる」「飛来してくる虫に対しては、周辺を草で囲われていたりすると飛来できないので防虫になる」などということを聞いた。

この場合、草に埋もれている側の苗には、虫が飛来できないのか、はたまた、他の植物や花の香りが混じったことで、みかんの苗に気がつかなかったのか?
明確な理由はわからないが、結果は、草に埋もれていた方の苗は、虫に食べられていないということである。

今を見るか?未来を見るか?

このひと時だけを見ると、草に埋もれていた方が良いと見えるし、僕自身もそう思うのだが、いつも、その時一点の状況を見て「きっと、未来もそうだろう」と考えるのは単純すぎる。
野菜をムシャムシャと食べている虫を見つけたら「この野郎、俺の野菜を食べやがって!」と、虫を抹殺してしまうが、これも、近視眼的な見方であるということを、最近になって、薄々を感じている。

僕が、自然栽培に関して、勝手にメンターにしている山岡さんが、しばらく前からYoutube「島の自然農園」をやっているのだが、その中で「草が虫に食べられている」という表現ではなく「草が虫に食べさせている」ということを語っていた。
実際の自然界の営みを知る由もないのだが、人間側の捉え方としてネガティブに捉えるか、ポジティブに捉えるかの違いだったり、「食べられている」で終われば、虫が悪者で、それを排除するという単純な行動で終わるが、「食べさせている」と捉えれば、そこには、人間の人知を越えた自然界の法則や、想像を超えた植物の考えや戦略があると思うことができるし、人間が手を下すことに関して、ちゃんと考えて手を下すことが必要だと、熟考させられることになる。

多くの人間は、この世で知らないことよりも、知っていることの方が多いかもしれないと思っていたり、人類は、すでに多くのことを掌握し、この地球をコントロール出来ていると思っている。
しかし、植物の営みを見ているだけでも、とんでもなく謎に満ちているのに、地球全体を掌握できているなど、完全にありえないと思ってしまう。

人は、植物や昆虫、動物などを、人間が理解できる程度の狭い範囲の中に押し込めて、それをコントロールしている気になっているが、実際には、自然物としての人間も含め、あらゆる物は、人間の理解を遥かに超えたポテンシャルを持っているのではないかと思う。
人間は、本来、もっと、ずっと、人のためになるあらゆるものを「理解できない」と言って、理解できる範囲に押し込めてしまわずに、理解出来なくても、大いなる力があると信じて「手を下さない」ことや「最小限に留める」ことにすれば、もしかしたら、今よりもずっと少ない労力で、今よりもずっと多くの収穫を得ることができるのではないか?
そんなふうに思う。

四国愛媛は、聖地だった

実は、そうしたことを思うことは、僕が、この山に来るずっと前から注目していた自然栽培の先駆けである福岡正信さんも本に書いていたのだ。
僕が愛媛に来てから知ったのだが、この福岡正信さんも愛媛だった。
それも、僕の山から見えるところに居た。

居たと言っても、今はすでに亡くなっているので、会えるわけではないのだが、ずっと後で知ったこの事実に驚いた。
大袈裟に言えば、僕は、自然栽培の聖地に、知らず知らずのうちに来ていたということになる。

この四国愛媛という場所は、東京にいれば「どこそれ?」くらい、まったく脳裏に浮かばないような場所であるし、愛媛というと「愛知?」と返されるくらい、関東の人は知らない。
しかし、四国は、弘法大師空海さんが八十八ヶ所を巡った、まさに聖地となる島であり、空海さんも徳島出身なのだ。

なぜか、僕の引越し先というのは、自分で決めたという感覚があまりなく、いつも、何かに呼ばれ、導かれて、その地に行くような気がしている。
港区青山の外苑前に引っ越した際には、明治神宮が近かったし、千代田区九段南は、靖国神社のそばだった。
事務所も、青山一丁目は、赤坂御所のすぐ目の前で、千代田区九段は、言わずと知れた皇居の目と鼻の先である。

僕たち、人間には、まだまだ知り得ない自然現象が、この世の中に渦巻いているのは確実で、それを賢明に解明しようとしている。
人間は、どこまで行っても終わりの見えないことに対しても、何世代もの年数をかけて、バトンを渡しながら少しづつでも、解明しようとしている。
こうした行為を、無駄なこと、意味のないこと、取り越し苦労と見る見方もできるが、こうした人々の努力のおかげで、今の僕たちは、文明の力が使えている。

こうした力は、時には、よくないように思える方向へ向かう時もあるが、人生も同様に「三歩進んで二歩下がる」形で、一歩進むのだろう。
現代の教育で、僕がまずいと思うのは「三歩進んだら、下がってはいけない」と、教えていることである。
これでは、四歩目は多分なかなか進むことができないだろうし、挫折する者も多いのではないだろうか?
それよりも、ウサギと亀の競争原理ではないが、三歩進んで二歩下がり、一歩をゆっくりと進んで行く方が、四歩目は早く到達するのではないかと思う。

今、自分が何をなすべきか?次世代のために

植物を見て「あっ、虫が食ってやがる」と思って、虫を駆除してしまうが、土地に栄養がない場合、きっと、葉っぱを虫に食べさせて、そこにフンをさせ、虫の体内を使って、より早く土に栄養分を落とさせ、次の世代のために肥えた土を作るために、植物は、虫に自分の葉っぱを食べさせているのかもしれない。
植物は、自分、一世代のことを考えているのではなく、二世代、三世代先の子孫のために、自分を犠牲にしていると思えなくもないのである。

今の日本の政治を見ていると、多くが、老人優遇政策になっている。
これは、老人たちの数が多く、さらに、投票率が高いせいである。
そして、そんな老人たちの支持を得ようと、政治家は老人優遇政策をとる。

これでは、次世代のためになってはいない。
本当に、老人たちは、自分たちに有利な政策を歓迎しているのだろうか?
そして、自分の子や孫を苦しめている政策になっていたとしても、それで良いと思っているのだろうか?

もしも、そうだとしたら、植物よりも、愚かな生物になってしまう。
いや、人間という種が愚かであることは、僕が言わなくても、多くの人々が薄々感じていることではあるだろう。
だが、一方、当然、地球上で最も賢い知能を持つ。

今、自分が何をなすべきか?
自分に問うてみれば、きっと、その答えがわかるはずだと思うのだ。

葉っぱが食べられている。周辺に、草が少ない。
葉っぱが食べられていない。周辺は、草がボーボー。

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