畑に春が来て、春菊からは菊の花が、チンゲンサイからは黄色い菜の花が、大根からも白い花が咲いて、一面お花畑になっている。
畑で育っているのは、葉物類とニンニク、そして、ジャガイモに、花が咲き始めたイチゴというところで、収穫はほとんどない。
そのため、最近は、あまり畑に入っていなかったのだが、久々に畑に入ってみると、菜の花にアブラムシがついているのを発見。
今までは、「くそ〜、虫がついてるよ〜」と思っていたのだが、今では、「おっ、鶏のエサがいる!」という反応に変わった。
烏骨鶏がいた時と同様、夏になるとミミズコンポストの中に、水アブの幼虫が発生するのだが、そんなウジ虫たちも、鳥がいれば良い餌である。
鶏というのは、本当になんでも食べる。
ヤギが食べ残した葉っぱはもちろん、残飯もどんなものでも残らず平らげてしまうし、ヤギの周りに集まってくる虫たちも鶏にとってみれば大好物がやってきているにすぎない。
地面を突いて、なんだかわからないけど、とにかく、何かを食べている。
鶏が卵を生まなくても、肉にしなくても、飼っているだけでメリットがあるのだ。
鶏を狙って、タヌキやイタチ、ハクビシンなどが迫ってくる可能性はあるが、そこに一緒にヤギがいるとなると、ハンターたちは手が出ない。
ヤギにとっては、小屋がきれいになるし、鶏にとっては捕食者を寄せ付けないので、お互いに共存しあっていける関係なのである。
そして人にとっても、卵を与えてくれるし、時にはお肉にもなってくれる。
ほったらかしておけば、エサはあげなくても問題がないほど、勝手に何かを食べている。
オスがいれば有精卵ができるが、オスのうるささは半端ない。
烏骨鶏がいたとき、あまりにもうるさいいので、結局、お肉にしてしまった。
メスだけだと、まったく無音と言っていいほど大人しいので、実際、何匹いてもなんの迷惑にもならないのである。
鶏卵や鶏肉が、あまりにも安く流通しているため、鶏の価値というのは非常に低く、卵と肉以外になんの価値もないように思われている。
しかし、飼ってみるとメリットは多いし、意外にもなついてくるのが可愛い。
最近は、昼間、小屋の扉を開け放っているのだが、人がいるところへチョコチョコと歩いてきて、人の近くに居ようとするのである。
さらに、犬のFANにも近づいていく。
こっちは、FANが襲いかかるんじゃないかとヒヤヒヤしているのだが、当の本人である鶏たちは、犬が捕食者であることを、まだ認識していないようなのだ。
FANは、人が見ている状態では、襲いかかることはないので、大丈夫だとは思うのだが、本当に鶏たちはなつっこいのである。
昔の日本の風景として、庭に犬とヤギと鶏がいたように思う。
今でも、アジアのど田舎では、そんな光景があるようだが、それでも、ほぼ無いと言っていいだろう。
コロナによって、田舎暮らしがやや注目されているように思えるし、自分で畑を作って野菜を栽培する人たちも増えているように思う。
それと共に、鶏やヤギを買う人たちも増えてくれたらと思っている。
現代の、たまごや牛乳の生産現場を見たことのある人は少ないと思うが、それでも、知っていると思う。
鶏や牛の生きる環境は、およそ生物としての扱いとは程遠い、単なる生産設備の一部とされている。
鶏などは、肉用で58日、卵用で1〜2年の命で、殺されてしまう。
ちなみに、鶏の寿命は7年ほどだ。
僕も以前は、卵を毎日産むのが鶏の習性なのだと思っていたが、実際には、濃厚な動物性の餌を食べさせることで、卵を早くたくさん生ませているにすぎないことを知った。
鶏が一生に卵を生む数はおおよそ決まっているらしく、260個程度だそうだ。
生後半年で卵を生み始め、毎日生み続ければ、一年半ほどで処分されてしまうことになる。
人間と同じように閉経があると考えても、本来であれば、五年程度は卵を産める体であるとすれば、年間五十個、週一個のペースが標準となる。
実際、うちの鶏たちは、ほとんど卵を生まない。
すでに卵をたっぷりと生んできていて、すでに生めない鶏もいるだろうが、十羽いても三日に一つ程度しか生まないのである。
お金があれば何でも買えると考える時代は、とっくに終わった。
都会にいたら、何でも手に入るように思えるが、本当にうまい卵は絶対に食べることができないだろうと思う。
自然のものを食べ、自然なサイクルで卵を生む、その卵を、その日のうちにいただく。
実際、どんなにうまいと言われる卵でも、売っている卵と、自分の家で生まれた卵では、まったく違うということを実感している。
やはり、生活環境と、食べ物によって、とんでもなくうまい卵を生み落とすのである。
鶏をほったらかしで飼うだけで、それが実現するのだから、やらない手はないと、今、実感している。