愛とは・・・2

投稿日:2012年7月17日 更新日:

少し前、愛とは・・・という記事を書いた。
愛とは何なのだろう?
そう思った中学2年生の時から26年が経った。
1つの答えが聖書の中にあり、
愛と言うことを頭で理解することが出来た。

すべてが愛であり、愛しかない。
この言葉によって、この世のすべてが愛であることも
頭で理解することは出来るようになった。

しかし、本当に愛というものが腑に落ちたわけではなかった。
愛する、愛される、愛に触れる・・・
そういった経験こそが愛を知るきっかけになるのだろう。

すべてが愛なら、すでに触れているはずだし、
すでに愛しているはずだし、愛されているはずだ。
だから、分かっているはずだ。
でも、全然わからない。

どうしたら、愛が分かるのだろうか?
と、思っていたところで前回の記事を終えた。

「つづく」と書いたのは、
まだ、答えが分からなかったからだ。

それから、まだたったの1週間だが、
この1週間の内に、神が答えを与えてくれたかのごとく、
愛について深い体験をした。
そして、また少し愛が分かった気がする。

駅の構内にある看板にこんな事が書かれていた。
ある新聞社の広告だ。
「好きと愛の違い。好きは自分事、愛は他人事」
正確には覚えてはいないが、こんなようなフレーズだった。
これを読んだとき、さっぱり分からなかった。
ほんの数日前の出来事だ。

しかし、この新聞記事に書かれていることが
ガツーン!と分かった。
好きというのは、確かに自分が誰か(何か)を好きだと言うこと。
当然なのだが、改めて考えてみると自分だけの中で完結できる。
しかし、愛というのは自分のことは、これっぽっちも関係ない事が分かる。
好き→愛になるというのは、あり得るが、実際には関係は全くないかもしれない。

「愛とは与えること」
と言う言葉を良く聞くと思う。
僕も何度となく聞いたことがある。
だから、分かっていた気でいたけど、
今までは、まったく分かっていなかったことが分かった。
そして、本当に100%相手のことだけ考えて、100%与えることなんだと実感した。
そこに、自分ごとはかけらもない。
そして、全開に与えることなんだと分かった。

聖書に書かれていたこと、
例えば、がまんとか忍耐とかも愛だと出てくる。
もちろん、すべてが愛なのだから、当然だろう。
と、頭では分かっていた。
でも、違った。
本当に相手のことを思えば、我慢や忍耐をすることもいとわない。
そういうことなんじゃないかと思った。

その忍耐がいやいやなのではない。
相手が喜ぶなら、楽しいなら、笑顔になるなら、幸せになるなら、
もっと言ってしまえば、ただ望むなら・・・
自分のすべてを捨てて愛する(与える)
そこに忍耐が伴っても、その忍耐さえも自分にとっては素晴らしいことではないかと。

結局、愛とは・・・
月並みなところに落ち着いたのだが、
これを頭で理解しているのと、
本当に心の奥底から体感するのでは、
大違いどころではないほどの大違いだった。

愛を追究するというのは、
人として最高の宝になることは間違いないと確認した1週間だった。

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