犬のバンダナもらった

横浜の旧友から、犬のバンダナが送られてきた。
先月、愛媛に来て、この山にきた。
その時、うちのFAN(犬)のファンになったとのこと。

この犬のバンダナ、今のコワーキングカフェを始める前に、やっていた事業で、こだわりの布を使って、和テイストの犬の服なんかを作っているようだった。

商品名が「和ん福」

当て字のダジャレ。
最も、成功しないパターンの一つである。

この時は「犬も飼ってないのに、犬関連ビジネスが成功する訳ないじゃん!」と、苦言を言っていた。
そこから、コワーキングカフェをやろうと思うということを聞いた時、「それは、犬の服より100倍いい」ってことで賛成したのだ。
その通り、コワーキングカフェは、順調にいっているようだ。今度は、ダジャレじゃないし。

話は、変わるが、この最も成功しないパターンの一つである【当て字のダジャレ】
これを、毎日のように目にする。

それが【陶街道】である。

田舎あるあるなのだが、特に、島国日本ならぬ、島国四国だからか、本州とは別の國という感覚なのか、それでだからか、東海道は、ずっと遠い異国の場所のように思っているのか、東海道のパクリが、公共の道路の名前に使われているのである。
それも、東海道五十三次もパクリ、陶街道五十三次がある。

「やりすぎだって!」

もう脳味噌ないんかい!?
と、言いたい。

なぜ、自分で考えることができないのだろう?
そういうところが本当に不思議である。

またまた、話は変わるが、僕は、

自分の頭で考えない人が好きではない

自分の頭で考えない人の典型人種は、宗教の人々である。
宗教にどっぷりと浸かってしまうと、自分の頭で考えることやめる。
宗教で言われていることが正しく、それがすべてであるという考え方になってしまう。

宗教を否定しているわけではないし、宗教の教えがよくないわけでもない。
ただ、宗教を信仰していくと、いつの間にか、教祖や経典、指導者などの言うことすべてを、単純に鵜呑みにしてしまう。
こうなると完全に思考停止状態で、ヤバイ。

こうした人々は極端だが、一般的には、多くの人々が自分の頭で考えないで、他人の意見や報道を鵜呑みにしてしまうことが多い。
まず、報道だが、流れてくるニュースを、ほとんどの人が鵜呑みにしている。
報道機関は、キャスターの個人的な意見を含めないようにしているが、それでも、報道の方向性は平等ではない。

例えば、誰かが逮捕されたとする。
すると、その人は『容疑者』と言われる。
この時点で、多くの人の頭の中は、『犯罪者』となる。

これは、報道する側も、容疑者=犯罪者として扱っているため、視聴者も同じように思ってしまうのである。
しかし、容疑者と言うのは『疑いのある人』と言うことであって、犯罪者として確定してはいない。

警察が逮捕したからといっても、警察が完全に正しいわけではない。
それなのに、警察が逮捕したのだから犯罪者に決まっていると言う見方をする。
しかし、報道機関が、容疑者=犯罪者と言う取り扱いをせず、判決が確定した時点で、容疑者から被告人になったことで、初めて犯罪者であると言う伝え方をしていれば、視聴者も誤解しない、、、かもしれない。

ただ、視聴者自身、こうしたことを考えることなく、単に、報道を鵜呑みにしている。
テレビを見ながら、まったく、脳が回ってないのである。

自分の頭で考えよう、自分の感覚を信じよう、自分自身を信頼しよう

あー、話が犬のバンダナから遠のいたけど、まっ、いっか。

まず、報道の続きを少し。
今や世界規模の出来事が、瞬時に報道されるようになっている。
それは、テレビだけではなく、ネットニュースなどでも、膨大な情報が飛び交う。

だけど、よく考えてみて欲しい。
ほとんどの情報は、自分の生活には直接関係のないことばかりだ。
多少の関係があったとしても、実際に、自分ではどうにもならないことばかりで、ただ知っていると言うだけで終わる。

そんな情報に、なんの価値があると言うのだろうか?

昔、僕が家にテレビがないことを人に告げると、よくこう言われた。
「ニュースとか知らないとヤバくない?」と。
その質問にはこう答えていた。

「ほとんどのことは、どうでもいいことで、よっぽど重大なことは、必ず誰かが教えてくれるから大丈夫」と。


その通りで、自分たちに直接関係することは、常に誰かが教えてくれる。
それ以外のニュースは、どうでもいいことである。

最近のことで言えば、安倍前首相が事情聴取されたことなど、僕にはどうでもいいことだし、コロナで何人感染したとか、そんなことを毎日知ってもなんの意味もない。
まあ、単に暇だからニュースをみている人がほとんどだろうが、せっかく見るなら、自分の頭で考えたいし、それを、どう自分の生活に活かすのかを考えたいものだ。

これは、子供の頃の教育から、すでに、自分の頭で考えさせないように仕向けられているので、仕方がない部分もある。
学校教育というのは【正解を覚える】ことが勉強である。
覚えることが得意だと褒められるのであるが、自分の頭で考えて答えを出しても、そうしたことは評価されないし、逆に「それは間違いだ」と、否定されてしまう。
幸いにも僕は、学校も教師も信用していなかったので、自分の頭で考える癖がついた。

一つ僕の子供の頃のエピソードを話そう。
中学1年頃のことだったと思うが、数学の授業で、教師が黒板に何やら問題を書いた。
「この問題を解いてみろ」と言う。
僕は、その問題の答えを出した。

しばらくして教師が「答えの出た者は?」と言うので手を挙げたが、手を挙げたのは、僕ともう一人だけだった。
僕は、数学が学校の勉強としては得意だったわけではない。
もう一人のクラスで一番の生徒と僕だけと言う図は、他の人たちには変な光景だっただろう。

僕自身も、二人だけだと言うことに驚いた。
教師も、他の生徒も、誰もが、きっと、僕の答えは間違いだと思っていたに違いない。

教師は、僕ではなく、クラスで一番の生徒を指した。
彼女の答えは単純だった。
単に、新しく習う公式を使って簡単に問題を解いてみせた。
答えは、僕の出したものと同じだった。

教師は言った「予習というものは、とても大事だ」と。
でも、僕は思った。
『自分で考えることは、とても大事だ』と。

数学のテストで、僕のやり方で答えを書いたら、基本的に間違いとなる。
公式というものを覚えることが正しいことで、自分で式を作るのは間違いなのだ。

自分の頭で考えない癖がついてくると、自分の感覚を信じなくなる。
自分の感覚よりも、他人の意見の方を優先しがちになる、それが、報道で言われていることだったら尚更だし、世間で普通とか常識とか言われていれば、なかなかそれらに抵抗できない。
自分の感覚で行動していたつもりでも、実は、長い年月をかけ洗脳された考えであることも、前述した学校教育の賜物だったりもするのだ。

そして、人々は、自分自身を信頼しなくなる。
自分の人生を悲観し、否定し、そうした悲惨な人生を他人の責任にしようと頑張る。
他人が認めてくれなければ、自分は無価値だと思い、認めない他人を恨みもする。

人の人生なので、好きに生きればいいのだが、一つ言えることはと言えば「自分の頭で考えようぜ」ってことである。
そのために、まずは、いろんなものを捨ててしまおうぜ。
必要最低限にして、リセットして、生きながらにして新しく人生を始めてみる。
そうすることで、自分の頭で考える癖が、少しづつ身についてくるのだ。

犬のバンダナの話から、ずっと遠くに来てしまったが、まあ、これもいつものことで。


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