自分を見つめる

この世界は、自分を写している鏡だという

そのことは、ずっと以前から聞いていて、きっとそうなのであろうと思っていたのだが、実際に問題に直面した時、「鏡」ということをどう捉えるべきなのか、いつもわからないでいた。

この世界、とは言っても、この世にいるすべての人々が同じ世界を見ているわけではなく、「この世界」とは、「私の世界」ということだが、私の世界というと、どうしても他者は全く存在しない世界のように思ってしまうため、あえて、私の世界のことであるが、「この世界」と表現する。

以前、毎日遅刻するスタッフがいた

注意をしても改善されず、遅刻という意識もないようだった。

決まっている就業時間には遅刻するが、自分の撮影にはギリギリ間に合っていたため「撮影に間に合えばいいだろう」という自己の判断において、行動していたことが伺える。

納期に関しても、納期が守られることはほとんどなかった。

納期に関しては「良いものさえ提供すれば、納期が遅れても良い」という考え方をしていたと思われる。

こうした判断は、会社や店の一員として問題があるのだが、このような現状は、すべて「自分自身の世界」における問題だということなのだが、それが、何を示しているのかわからないでいた。

「鏡」というのなら

自分自身が「時間」を軽視しているということの表れかとも思うが、僕自身は、遅刻というものをしたことはない。

では、鏡の性質として逆に写ると考えるとどうか?(右手をあげると、鏡の中では左手をあげていることになる現象)

自分が時間を正確に守ることを信条としているのなら、そうではない人物が現れることになる。

しかし、それが何を意味しているのだろうか?

昔、夢があった

起業するということだ。

起業して、叶えたいことがあった。

実は、その一つが「朝、起きなくていい」ことだ。

「時間を守らなくても良い」ということは、僕のささやかな夢であったのかもしれない。

ということは、時間を守りたくて守っていたのではなく、守りたくないのに守っていたのかもしれない。

そう思うと「時間を守らない人」に対して、「自分は(守りたくなくても)守っているのに、あの人は(守らなければならないのに)守っていない」という思いを持ち、それが、羨む気持ちであるだけなのに、なぜか、怒りになってしまったり、「私は正しいことをしているのに、あの人は間違ったことをしている」という判断になってしまったりするのかもしれない。

本当は、相手に対してそれを是正させようとせずに、鏡なのだから自分の何かを変えれば良いのだ

そのことはわかっていた。

しかし、当時は、自分の行動を変えるのか?と思っていた。

だが、今はこう思う。

「守らなければならない」という自分自身への呪縛のような思いを変えることが必要なのだろう、と。

だから「守らなくてもいい」という思いを持てば、それは消えてしまうのだと思う。

現在、僕は、時間を守らなければならないという出来事は、ほとんどない

飛行機に乗り遅れないように、空港へ行くことくらいである。

だけど、やっぱり「時間は守らなくていけない」という思いがある。

それを、自分も含めて、誰もが守るか、守らないかは、勝手に判断すればいいのだ。と、思うことにしたい。

飛行機の時間を守らなければ、飛行機に乗れないだけなのだ。

こうなると「人に迷惑がかかる」ということになる。(飛行機は、少しくらい待ってくれるものなのだ)

そう思うから「時間を守らなくてはならない」と思ってしまうのだが、他の人が遅れたり来なかったりすることに対して、「迷惑だ!」と思ったその人は、その人の価値観に、その人自身が縛られているので、結局は、その人自身の問題なのだ。

しばらく前に、松山から飛ぶ飛行機が一時間ほど遅れたことがあった

待っている人たちの中には、イライラとしている人もいただろうが、当然、僕は何も思わない。

一時間を松山空港で過ごしているか、奥さんの実家でゴロゴロしているか、カフェでのんびりしているかだけであるのだ。

イライラとしている人は、きっと、予定時間というものがあるのだろう。

しかし、それも、予定している相手の問題でもあるのだ。

その人は、なんとも思っていないかもしれないし、逆に、遅れてきてくれた方がちょうどいいから、飛行機が遅れているのかもしれないのだ。

なんでも予定通りが、すべて正しい選択とは限らないのである。

だから、予定に遅れるのは必然であり意味があると考えればいいだけなのだろう。

自分を苦しめている「考え方」から解き放つために、目の前の現象が起こっていたのだと考えると、なんとなく納得できるような気がしてくるものだ。

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