1つ前に書いた記事に、テレビドラマ「ゲゲゲの女房」のことについて触れた。前の記事では、オープニング曲のことだけだったが、今回は、ゲゲゲの女房についてだ。
と、言っても、ドラマのこと云々というわけではない。ドラマは「フィクション」ってことになっているが、実名を使うのだから、大まかな内容は、実際の通りなのだろう。
ドラマを見ると、ほぼ、ずっと、ド貧乏である。
マニアや関係者には、評価が高いが、本はさっぱり売れず、売れてもギャラが入らなかったりと、踏んだり蹴ったりの人生が描かれている。
現実に、この状態であれば、やはり「もう八方塞がりだー!」と投げ出したくなるだろうし、どうしたらいいのか悩みに悩むことだろう。
しかし、もし、
未来が見えたら・・・
実際に、今であれば未来は見えている。
未来には「ゲゲゲの鬼太郎」がいる。
それが、信じられるか?
という、ただ一点にかかっている。
ただ、信じるか信じないか?
これだけの違いで、ゲゲゲの鬼太郎が生まれるか、生まれないかにかかっているのだ。
信じなければ描き続けない。描き続けなければ生まれない。
具体的に見えていなくても、霧に包まれていても、行く道が全くわからなくても、信じて前に進み続けるからこそ、そこにたどり着くのだ。
僕自身も、常に自分を信じている。
誰一人として信じなくても、僕だけは信じているのだ。
だから、僕にも未来が見えている。
どんな風か、具体的なところはさっぱりだが、それでも未来は見えているのだ。
思考・言葉・行動
この3つによって、世界は造られる。
頭の中に描けるものは、描いた瞬間に、どこかの時空に生まれている。
そこに、いつ行くかはわからない。
すぐかもしれないし、ずっと先かもしれないし、はたまた行かない選択をするかもしれない。
しかし、必ず「ある」のだ。
「有言実行」
という言葉があるが、僕は、「有言」しないようにしている。
自分には、言っているが、自分以外には言わないようにしている。
なぜか、今までの46年間を振り返ると、自分以外の人に言ってしまうと、そのことが実現しない現象が多い。
有言実行に沿えば、たくさんの人に言うと、たくさんの協力者が集まって、みんなの思考のエネルギーと行動のエネルギーによって、現実化すると言うことになっているはずなのだが・・・
どうにも、僕の場合、そうならない。なったためしがないように思える。
うまく行ったことを振り返ると、すべて、誰にも言わず、一人でチマチマと準備して、一人で初めてきたことがうまくいっているような感じがするのだ。
どうも、僕は、自分以外の人に言った瞬間に、自分の中のエネルギーをとどめておくことができずに吐き出してしまうのではないか?と思う。
それに気がついてから、なるべく気をつけて、自分以外の人には言わないようにしている。
ついつい、ポロっと漏らしてしまった瞬間に「しまった!」と思い、その瞬間「どうか、忘れてくれ!」と願うのだが、時すでに遅し・・・
未来が見えたら・・・
ではなく、未来は見えているのだ。
信じるか、信じないかは、あなたしだいです。
あれっ?なんか、安っぽく終わっちゃった?