この山に来た時に、入り口付近の最も目立つ位置に生えている木があるのだが、今の今までなんの木なのかわからなかった。
この春、この木に花が咲いた。
木の雰囲気からして梅だと思っていたし、花も梅のようだったが、咲く時期が桜と同じ頃だったのが気になっていた。
じっちゃんが来た時に「この木なんの木?」と聞くと「そりゃ、桃だ」という。
桃?
花が散り、少し実が出来始めたが、どうも梅のような、そうではないような?
とても、桃には見えないんだけど・・・と思っていた。
実が少し膨らんでくると、梅よりも少し大きく、桃よりは断然小さい。
そして、なんとなく、先っぽが尖っている。
他の人にその特徴を話すと「たぶん、スモモだろう」とのことだった。
あー、じいちゃんが言いたかったのもスモモってことだというのがわかった。
確かに。
「スモモも桃も桃のうち」だもんな。
緑だった実は、徐々に赤みを帯びて来た。
スモモらしいということはわかったが、それでも、まだ食べられるスモモだってことには確信がなかった。
そこで、赤く成って来ている身を食べてみると・・・
う、うまい。
とはいえ、期待していなかった分だけ、うまく感じたってだけで、果物としてうまいわけではないが、ちゃんと食べられるし、甘みもある。
こうして、食べ物が勝手に生えていて、有り余るほど食べられるってのは、人間の根底からふつふつと湧く幸せ感というものがある。
ヤッター!というような喜びではなく、なんか「生きていける」という肉体の安心した声のようなものだ。
ステキである。
よく「食べるために仕事をする」とか「食べるためにお金を稼がなければならない」というが、ここにいると、食べ物なら、そこらへんにいくらでもあると思えてしまうのだ。
それは、生物としての根源なのだ。
では、食べることに、全く困らないとなれば、人は、なんのために仕事をしたり、お金を稼ぐというのだろう?
衣食住というが、この三つが十分に満たされているとしたら、人はどうなるのだろう?
それでも、もっと、もっと、と欲望に際限がないのだろうか?
世界一貧しい大統領と言われた、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領は、こう言っている。
「貧しい人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、もっと、もっと、といくらあっても満足しない人のことだ」と。
(正確には、エピクロスやセネカ、アイマラ人の人たちが言っているそうなのだが)
世界中の大半の人々は、「もっと、もっと」と追いかけている。
そして、請求書の支払いに追いかけられることになってしまう。
いつも、不足を感じているのを、有るものに目を向け、たくさんのものに囲まれて、もう十分にあることを感じることができるといい。
しかし、実は、物に囲まれ過ぎてしまっていることも、不足感を増す原因となっていることもある。
それは、自分の周りを囲む物たちは、本当の意味で、自分自身を満足させてくれないからだろう。
だから、本当の満足を得るために「もっと、もっと」となってしまうこともあるだと思う。
その呪縛から抜け出すためには、本当に大切なものだけを残し、他のものは捨ててしまったり、あげてしまったり、売ってしまって断捨離するのが良いらしいのだ。
また、物を買うときも単に「必要だから」と安易に買わないで、自分を本当に満足させてくれることに役立つかどうか吟味して買うことも大切だろう。
「お金がないから」とか「予算がないから」とかの理由で、本当に欲しいものではない代用品に手を出すくらいなら買わないほうがいいのである。
スモモの隣には、柿の木があって、小さな実を付けている。
秋が楽しみである。
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