「危険」だとか「危険ではない」とか、ハッキリって、ハッキリ言えないのが本当だが、あえて、3年間山で暮らしてきた僕が、言うとこうなる。
山は、危険ではない!
ただし、単に住宅街の中と同じように暮らしているだけでは、危険は回避できないのは当然のこと。
水の量と流れ、入口と出口を見極めることは必須だ。
それが出来れば、山は、多くの人が想像するほど危険な場所ではない。
とは言え、もちろん「山」と一言ですべての山のことを指すことは出来ない。
なので、もう一言加えるとすれば、
僕の山は、危険ではない!
と、言うことになる。
3年間をここで過ごし、3回の豪雨に見舞われ、木を切り、山を削り、建物を建て、いろんなことを、この山でやってきた。
春夏秋冬、どこから風が吹くだとか、雨の角度がどうだとか、様々な自然の息吹を感じてきた。
だからこそ「危険ではない」と、言い切っている。
自然を感じ、第六感を研ぎ澄ます
東京で暮らしていると、太陽の位置がどこにあるのか?
風がどこから吹いてくるのか?雨の角度はどの程度なのか?
室内と屋外を行き来していると、正確な気温さえもわからなくなってしまう。
しかし、山にいると、それら全てを、全身で感じることができる。
満月と新月の月の明るさに、かなりの違いがあることは、周りに明かりがない状態でなければわかり得ない。
夏至と冬至の差も然り。
そこに、植物や虫や獣が関わってくる。
まるで、自然界のフルオーケストラの中にいるように生きている。
見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、味わえるもの、嗅げるものだけではない、第六感のようなものが、ムクムクと顔を出してくる。
そんなふうに、自然の声が聞こえるようになってきたら、きっと、山は危険なところではなくなるように思えるのだ。
下に下がれば下がるほど危険度は増す
降った雨は、下へ下へと下っていく。
山にいるよりも、麓にいる人たちの方が、水量が多くて怖い思いをしていると思われる。
こうした豪雨に見舞われると「雨、大丈夫ですか?」と言われることがあるが「こっちの心配よりも、自分の心配してください」と思う。
なんせ、標高が低ければ低いほど、水害の危険度は高いのだから。
西日本豪雨の際、雨が落ち着いた時に、車で山を降りていったことがある。
その時、山を下れば下るほど、道路を流れている水の水量が増していき、危険を感じたことがある。
結局、降った雨は、どんどん下に流れていくわけだから、下の方が水量が多くて当たり前なのだ。
そして、山の上は、実際、大した水量はない。
ただ、水がどこを流れているか?と言うことが問題なのだ。
水が崖を勢いよく流れているとしたら、そこは、土砂崩れの恐れがある。
実際に、西日本豪雨の時は、僕の住む小屋の50m上で起きた、土砂崩れはそのパターンだった。
あと、斜面から水が出ている場所などは、そこに水脈が通っているわけだから、その上が崩れる可能性がある。
避難は、逆に危険。道路が寸断されても大したことはない
土砂崩れを警戒しなければならない場所というのは、主に、山の下に住む人たちである。
崩れた土砂が落ちてくる場所が最も危険であって、崩れる場所の上にいない限り、山の上では、そうそう危険が及ぶことはない。
まあ、木(杉やヒノキの針葉樹)が倒れてくるなんてことはあるかもしれない。
逆に、避難する必要が出た時には、避難するために山を下って行くことこそが危険度を増す行為だと認識してきた。
たとえ、道路が寸断されても、歩いて30分もすれば麓に着けるし、道路の復旧のために、自分でユンボを出して、土砂を取り除いたりすることも出来るのだから、あまり気にすることはない。
電気が途切れたとしても、何日かはバッテリーの電力で過ごすことは可能なのだ。
自分で感じ、考え、判断する
先進国に住む現代人の多くは、自分で感じ、考え、判断する能力が衰えてしまっている。
感じたとしても、それが正しい感じ方なのか?他の人と同じように感じているのか?などと考える。
考えることも、他人が変に思わない考えなのか?考える前に調べ、他人の考えに準じたりする。
判断する際の基準は、正解か不正解か?賢明に正解を探し「正しい判断」ということを重要視する。
こうした人々のことを、僕はこう呼ぶ。
教科書人間
教科書に書かれているような正解を、常に気にする。
正しい答えを出していないと「それは間違っている」と指摘する。
そして、親切に正しい教科書通りの答えを教えてくれる。
とっても親切なのだが、教科書(現代ではGoogle先生だろう)を見ればわかることである。
それよりも、1+1=2のように答えがわかっていても、あえて3や4や田んぼの田にする方法を探る。
僕には、これが面白い。
だから、人からすれば、間違った生き方をしているとしても、僕は、あえて選んでいる。
他人と異なった感じ方、してはいけない考え、間違った判断というものをすることを選んでいるのである。
もちろん、1+1=2であることは知りながら。
どこに住もうが、どこにいようが、何をしていようが、最後に残るのは自分で考える人
最も安全な地域、それは、
都心一等地の高台
だろう。
僕が東京にいる時に住んでいた場所は、港区赤坂の坂の上、港区青山の山の上、千代田区九段下ではなく九段上である。
これらは、すべて都心一等地の高台である。
高台はわかると思うが、なぜ、都心一等地がいいのか?
これは、インフラの強固さにある。
下水は溢れることはなく、電気が停電することもない。
ガスも水道も止まらない。
日本中で、最も強固に作られ、メンテナンスされていることは確実だ。
都心一等地の高台にいれば、何も考えなくていい。
ただ「雨が降ってるなぁ」と思っているだけでよく、なんの災害も起きることはないのだ。
しかし、こうした場所にいる人々は、逆に、自分の感性で感じ、自分の頭で考え、自分の基準で判断する人たちばかりだった。
だから、こう言える。
結局、どこが安全とか危険とかではなく、自分で考える人なら、どこにいても大丈夫だということなのである
もう、大昔の話になるが、ホテルニュージャパンの大火災というものがあった。
もちろん、現場を見たわけではないので事実はわからないが、こんな話を聞いたことがある。
多くの人たちが、浴衣姿のまま、助けを求めて叫んだり、窓から飛び降りたりしている中で、出火元に近い部屋にいたにもかかわらず、なんの怪我もなく出てきた男性がいたとのこと。
その男性は、火災が起きているとわかったさい、まず着替えをして、帽子を被り、靴を履いて、普通に部屋から出ていき、普通に階段を降り、出口から出てきたそうだ。
もちろん、途中には、煙で覆われていたり、火が燃え盛っていたり、いろんなものが倒れていたりした中を進んだと思うが、それでも、落ち着いて自分で歩いて出てきたという。
この違いは、冷静だったかどうか?なのだが、結局は、日頃から自分で考え、感じ、判断しているか?
ということが、大きな結果の差につながっていたように思う。
と、いうことで、僕は、自分で考えて判断しているので、大丈夫。。。とは一概には言えないが、他人に自分の人生の判断を委ねることはなく、自分で考え、判断し、後悔はしたくないのである。
動画も撮ってみた