自分を見つめる2

投稿日:2018年7月3日 更新日:

NHK「100分de名著」によって、仏教について学んでみたいという思いを持った。

しかし、これを面白いと思えた背景には、聖書をはじめ、神との対話や神様とのおしゃべりなどの著書を読んでいて、今まで、神について、人間について、生きるということや、目に見えていない世界、この世の仕組み、死後の世界など、いろんなことに思いを巡らしながら45年間を生きて来て、学び、考えて来たからこそ「仏教が面白そう」だと思える気がするのだ。

宗教というくくりで考えてしまうと、宗教とは、人々を脅かせ、救いは宗教にあるということを思わせて成り立たせる、権力や金銭収集機として成り立っていることがほとんどである。

これは、キリスト教でも仏教でも同じだろう。

しかし、本当にキリストが伝えたかったこと、本当に釈迦が伝えたかったことはうやむやにされ、宗教を運営する側に都合の良いように作り変えられてしまっているのだ。

そうした部分を感じたからこそ、僕は、教会へ行かなくなった。

教会では、本当の真理は、教えてもらえなかった。

きっと、お寺に行っても教えてもらえないだろうし、神社へ行っても同じだろう。

本当の真理は、宗教にとっては、とても都合が悪いからである。

なのに、なぜ、経典には、そんな都合の悪いことが、堂々と書かれているのか?

そこが、僕の最も興味を惹かれたところなのだ。

しかし、まだ、実際に経典を読んだわけではなく、番組を見たに過ぎない。

なので、早速、法華経、密教、維摩経の経典を読んでみている。

もちろん、聖書にも真理は書かれている。

しかし、教会では、その真理はキリストの意図とは違う形で解釈され教えられる。

そして、どうやら、何世紀にも渡り、聖書は誰かの都合のいいように書き換えられてきたらしいのだ。

その点、仏教の面白いところは、新しい経典が次々と作られてきたところにある。

キリスト教が、基本的に聖書一つ(実際には、同じ聖書という名前でいくつかある)なのに対して、仏教は、たくさんの経典がある。

そのため、宗教としては都合が悪いが、この世の真理に気が付いてしまった人が、今までとは違う経典を作ってしまい、それが広まってしまう。

もちろん、その経典を元に宗教を運営する人たちは、自分達に都合のいいように解釈して利用するわけだろうけど。

もちろん、仏教の経典も、誰かの都合のいいように、書き換えられてきたのかもしれない。

しかし、一つの宗派で、一つの経典に縛られなければ、たくさんの経典を読み込んでいき、違う角度から、真理を見つめていけば、本当に大切なことが見えてくるような気がするのだ。

僕は思う。

この世界は複雑なんかじゃない。

とても単純にできている。

すべては、自分の想像通りでしかない。

自分が主役の舞台に立っているのだけなのだ。

他人の行動も言動も、すべてが自分が書いた台本に沿って流れている出来事でしかない。

そこには、自分が経験するための大切な意味が込められている。

自分に対して影響があること、特に、感情が動くような出来事は、自分にとってとても大切な出来事であるから、その設定にしているのだ。

それがなんの意味を持つのか?本当の自分は知っていても、この世界にいる役者である僕たちは気がつかない。

気がつかないからおもしろい。

しかし、永遠に気がつかなければ、まったく面白くない。

いいタイミングで気が付いて、次の行動へと移っていくことが、もっとも面白いストーリーだろう。

すべてが予定通りであるのだ。

僕たちは、人生というゲームをしているのに過ぎない。

リアル体験ゲームである。

ゲームというのは、あらゆるパターンのプログラムが組まれている。

選択によって、次に起こるシーンが決まっている。

プログラマーである自分は、すべてのパターンを知っている。

だが、この世界にいる間は、それらを忘れてゲームを楽しむ。

先が見えていたのでは、まったく面白くはないからね。

「なぜ私は、この出来事を選んだのか?」

常に、目の前に起こる現実に対して、この問いを問いかける。

「誰か」ではなく「私」である。

誰かが何かを言って、私が傷ついたという出来事があったとしても、それは、私が、相手に言わせたセリフなのだ。

私は、なぜ、この人に、こう言わせたのだろうか?それを問うていけば、次の道が見つかるのだ。

もちろん、理屈でわかっても、本当にはわからない。

それでも、それが真実であるのだから仕方がない。

本当にわからないから、ゲームは面白く遊べる。

心の奥底から、真理が理解できてしまい、悟りまで到達してしまったら、それはゲームオーバーってことになる。

要するに、生きる意味がなくなってしまうのだ。

天に帰るか、この世に残って人を導くか、どちらかしかない。

はたまた、山にこもって誰にも会わずに余生を過ごすか?

僕の名前「昌徳(まさのり)」というのは、どこかの坊さんが付けたらしい。

そして、ずっと以前に、声紋から人の内面を見るというのをやってもらった時に「芸術家だと思ったら、お坊さんなのね」と言われたことがある。

そして、四国にいる。四国は空海の地である。

僕は、きっと、仏教にも何かしらの縁があるのだろ
うと思っていたのだ。

さて、いろんな経典を読むのが楽しみである。


via Mark な 人生



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