まるで、山の斜面に建てられたビル群のようにそびえ立つ、石の頭を持つ土の塔。
こうした小さな塔がいたるところにある。
頭の石が大きければ、土の塔も太くなっている。
まるで、街のように・・・
このビル群は、ほんの三日で作られたものだ。
そう、先週の三日間の豪雨によってできたものである。
こんな風になる理由は、大量の雨が真上から垂直に落ちて来たことによって出来上がったものだ。
真上から雨が落ち、土は流されるが、石に当たった雨は、石の下の土を流さずに、そこの土だけが残る。
そんな雨が、延々と続いたため、こんな風に塔のようになったというわけなのだ。
昨年の9月の豪雨の時も、自然が作り出す美しい造形を目にしている。
それは、沢に大量の雨が流れたことで、それまで堆積していた枯れ木や枯れ葉
、細かい石や土などが一気に流されて、沢とその周辺が、とても綺麗になったのを目にした。
こうして、自然災害というものが起こった後で、こんなにも自然の作り出す美しきものを目にしてしまうと、こんな風に思ってしまう。
すべては相対性であると。
振り子のように、あっちへ行けば、その反動でこっちにも来る。
両方が、同時に存在するのだろう。
脅威があれば、安らぎも生まれる。
そんな気がする。
対極の二つのものは、元々は一つであった。
しかし、それでは、存在を確認できないので、その一つは二つに分かれた。
幸せしかなかったら、幸せを感じることはできない。
光しかなかったら、光を感じることはできない。
愛しかなかったら、愛がなんなのかさえわからないだろう。
だから、きっと、どんなものでも二つで一つなのだろうと思う。
それを、よくコインの裏と表だというが、きっとその通りなのだろうな。
苦痛しかないなどということはなく、その反対のものがある。
貧しさだけということはなく、その反対がある。
悲しみも、寂しさも、孤独も、それらすべてに、その反対も内在されているのだろう。
幸せになりたいという願いは、不幸せを経験していなければ、感じることはできないのだ。
光を求めるのなら、暗闇にいなければならない。
愛を知りたければ、愛の無い世界に身を置かねばならないのだろう。
被災地では、この三連休を利用したボランティアの人々がたくさん集まって、猛暑の中、懸命に復旧活動を行なっているようだ。
被災した人たちは、感謝し、その優しさを感じているのだろうと思うし、ボランティアをしている人たちも「人の役に立っている」という充実感を味わっていることだろう。
それを感じるためには、災害がある必要があったのだ。
「何事も起こらないのが幸せ」
という人がいるが、本当の幸せは、そこには無い。
何事か起こるからこそ、幸せって感じることが出来るのだろう。
そこに気がつかない人は、幸せを感じたいという内在する欲求を叶えるために、不幸せな出来事を何度も何度も自分の身に襲いかからせるのだろうなぁ。
人生ゲームって、本当におもしろいものだ。
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